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東京地方裁判所 平成7年(合わ)404号 判決 2000年6月06日

主文

被告人を無期懲役に処する。

理由

(前提となる事実)

一  被告人は、京都府において、父u、母u'の間に二人兄弟の次男として出生し、京都市内の小、中学校を卒業後、中学三年のころから宗教に関心を持つようになっていたことなどから、真言宗を基本とする私立洛南高等学校に入学した。

被告人は、既に中学生のころから未熟ながらも、被告人なりに社会の現状に疑問を持ち、将来に対する漠然とした不安や無常観を抱いて、解脱や霊件の開発にひかれて自ら探し出した書物などで宗教を学んでいたが、解脱のためには教えを導く者の存在が必要ではないかと思うようになり、高校一年の一一月ころ、阿含宗に入信したものの、期待は満たされないでいたところ、オウム神仙の会の主催者である乙川次郎こと乙川次郎(以下、単に「乙川」みもいう。)の著書を読んで、その修行法に興味を覚え、霊性の開発の修行を進めてみようと、高校二年時の昭和六一年五月ころ、オウム神仙の会に入会した。

オウム神仙の会は、ヨーガの修行などにより解脱、悟りに至ることを目的として、昭和五九年二月、乙川によって発足し、昭和六二年七月ころ、オウム真理教と名称を変更し、平成元年八月、東京都知事から宗教法人の認証を受けて宗教法人オウム真理教(代表者乙川)として設立登記された(以下、名称変更、登記の前後を問わず、便宜上「オウム真理教」あるいは「教団」という。なお、本件後の平成七年一〇月、東京地方裁判所が東京都知事等からの申立てを受けて教団の解散命令を下し、これに対する東京高等裁判所、最高裁判所への不服申立も平成八年一月までに棄却された。)。

被告人は、高校に通う傍ら、教団のテキストで自宅修行したり、教団主催のセミナーに参加したりし、大阪支部道場ができてからは、休日毎に道場に通い、修行や支部活動を行う生活を続け、昭和六三年春、高校を卒業した直後に出家信者となった。被告人は、いったん東京の私立大学に入学したが、一年を経ずして中途退学し、その後は、福岡支部長、東京本部長等の地位に就き、修行を続けるとともに、信者獲得等の教団活動を行った。そして、平成六年六月、教団が、乙川を頂点とし、教団内で国の行政組織を模倣した省庁制をとり、科学技術省、治療省、自治省等の組織が設置されたのに伴い、教団の諜報活動等を担当する諜報省の長官(大臣)の地位に就いた。

一方、教団では、宗教上の地位としてステージ制がとられており、被告人は、昭和六三年一一月ころにクンダリニー・ヨーガの成就を認められて師となり、アーナンダというホーリーネームを与えられ、右省庁制実施の少し前ころ愛師長となり、平成七年三月一七日付けの教団の通達により正悟師に昇格した。

二  オウム真理教は、古代ヨーガ、原始仏教等を背景とする教義を唱え、衆生の魂の救済を最終目標とし、乙川の指導の下に、入信し、出家信者となり修行を積むことによって誰でも解脱することができるなどと説き、伝統的仏教が大衆化したような形で、全国各地に支部や教団施設を設立するなどして、人の具体的な意識変容やそれに伴う解脱、悟りの道を示しつつ積極的な信者獲得運動を行い、その結果、現代社会に対する不安等を感じて解脱を希求する多数の信者を獲得していった。

乙川は、超能力の持ち主である最終解脱者と称し、信者には「尊師」あるいは「グル」と呼ばせて、自らを教団内の崇拝の対象に位置付け、原始仏教やチベット密教の教えをとり入れた独自の教義を作りあげて、解脱に至るためには、グルの意思を実践するしかないとして、乙川に絶対的に帰依し、その命令を忠実に実践して功徳を積まなければならないと説いた。教団に入信した者は、教団内で解脱のための修行体系がマニュアル化されており、それに従って厳しいヨーガ修行等を行うことにより、一定の神秘体験と思われるものを実際に得られたことなどから、乙川への帰依を強めるようになり、出家する者も増加していった。

三  乙川は、平成二年に施行された衆議院議員総選挙に、教団幹部と共に立候補したものの、全員が落選したことから、反社会的姿勢を強め、これを契機に、タントラ・ヴァジラヤーナと称する武力による救済を唱えるようになり、また、平成四年ころから、信者に対し、近い将来に世界最終戦争すなわちハルマゲドンが勃発し、ほとんどの人類が死亡するに至ると予言し、この戦争に生き残るため、あるいは、教団に宗教弾圧を仕掛ける国家権力に対抗するためには、教団の武装化が必要であると説き、そのためには乙川が必要と認める場合には、殺人でさえも、「ポア」と称し、放置すれば三悪趣(地獄、動物、餓鬼の世界)に落ちるような悪業を積んでいる者を乙川の力によって来世に高い世界に転生させる手段であるとして、これを容認し正当化する教義を唱えるようになった。

(犯罪事実)

被告人は、

第一  乙川次郎並びに教団所属のH、R、V3、V2、G、V1、V4及びかつて教団に所属していたことのあったiと順次共謀の上、深夜教団施設に侵入して治療中の者を秘かに連れ出そうとした落田某(当時二九歳)を殺害しようと企て、平成六年一月三〇日、山梨県西八代郡上九一色村富士ケ嶺<番地略>所在の「第二サティアン」と称する教団施設(以下「第二サティアン」という。)内において、iが落田に対し、その頸部にロープを巻いて締め付け、この間、被告人らが暴れる落田の身体を押さえ付けるなどし、よって、そのころ、同所において落田を窒息死させて殺害した。(平成七年七月一〇日付け追起訴状の事実)

第二  乙川次郎並びに教団所属のK、G、H、x、Z、A2及びJと順次共謀の上、出家を拒んでいた信者を支援しているなどの疑いのあった水野某(当時八二歳)にO―エチルS―(2―ジイソプロピルアミノエチル)メチルホスホノチオレート(いわゆるVX。以下「VX」という。)を付着・浸透させて同人を殺害することを企て、平成六年一二月二日午前八時三〇分ころ、東京都中野区本町<番地略>付近路上において、A2が、予め準備していた注射器内のVX溶液を水野の後頭部付近にかけて体内に浸透させたが、加療六一日間を要するVX中毒症の傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった。(平成八年二月九日付け追起訴状の第一の事実)

第三  乙川次郎並びに教団所属のG、H、x、Z、A2及びJと順次共謀の上、公安警察のスパイとの嫌疑があり、教団にとって邪魔な存在と考えられた濵口某(当時二八歳)にVXを付着・浸透させて同人を殺害することを企て、平成六年一二月一二日午前七時一〇分ころ、大阪市淀川区宮原<番地略>付近路上において、A2が、予め準備していた注射器内のVX溶液を濵口の後頸部付近にかけて体内に浸透させ、よって、同月二二日午後一時五六分ころ大阪府吹田市山田丘<番地略>大阪大学医学部付属病院において、同人をVX中毒により死亡させて殺害した。(平成七年一二月二二日付け追起訴状の事実)

第四  乙川次郎並びに教団所属のG、H、x、Z、A2及びJと順次共謀の上、教団に敵対する存在であったオウム真理教被害者の会の会長永岡某(当時五六歳)にVXを付着・浸透させて同人を殺害することを企て、平成七年一月四日午前一〇時三〇分ころ、東京都港区南青山<番地略>付近路上において、A2が、予め準備していた注射器内のVX溶液を永岡の後頸部付近にかけて体内に浸透させたが、加療六九日間を要するVX中毒症の傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった。(平成八年二月九日付け追起訴状の第二の事実)

第五  乙川次郎並びに教団所属のH、M、o、x、O、A4及びA5らと順次共謀の上、教団から離脱するため身を隠した信者A3の所在を聞き出すため、同女の実兄假谷某(当時六八歳)を拉致することを企て、平成七年二月二八日午後四時三〇分ころ、東京都品川区上大崎<番地略>付近路上において、同所を歩行中の假谷に対し、その背後から同人の身体を抱えるなどして、同所付近に停車させていた普通乗用自動車の後部座席に同人を押し込んで直ちに同車を発進させ、同車内において、同人に全身麻酔薬を投与して意識喪失状態に陥らせ、さらに、同日午後八時ころ、東京都世田谷区粕谷<番地略>所在の都立芦花公園付近路上において、意識喪失状態のままの同人を別の普通乗用自動車に移し替えた上、同車内において、同人に全身麻酔薬を投与して意識喪失状態を継続させながら、同日午後一〇時ころ、第二サティアン内に連れ込み、そのころから同年三月一日午前一一時ころまでの間、同施設内において、同人に全身麻酔薬を投与して意識喪失状態を継続させるなどして同人を同施設から脱出不能な状態におき、もって、同人を不法に逮捕監禁した。(平成七年九月四日付け追起訴状の第一の事実)

第六  平成七年三月一日、前記假谷が第二サティアン内で死亡したことから、教団が同人を逮捕監禁したこと及び同人が死亡したことを隠蔽しようとし、乙川次郎並びに教団所属のH、M及びA4と共謀の上、同日ころから同月四日ころまでの間、第二サティアン内において、假谷の死体をマイクロ波加熱装置とドラム缶等を組み合わせた焼却装置の中に入れ、これにマイクロ波を照射して加熱焼却し、もって、同人の死体を損壊した。(平成七年九月四日付け追起訴状の第二の事実)

第七  世間の同情を買うなどして教団に対する警察の捜査を免れるなどしようと考え、教団所属のA6及びA4らと順次共謀の上、

一  治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、平成七年三月一九日午後七時二五分ころ、東京都杉並区上井草<番地略>鈴木某所有のマンション「□□」一階玄関出入口ガラスドアの前に、内径約一〇センチメートル、高さ約二〇センチメートルの円筒状紙管二本に黒色火薬約九〇〇ないし一〇〇〇グラムをそれぞれ充てんしてその両端を厚紙、ガラス繊維布、樹脂等で密閉したものに、バッテリー、ニクロム線、回路基板、乾電池等からなる時限式起爆装置を施した手製爆弾一個を設置して、時限の到来とともにこれを爆発させ、同マンション玄関ガラスドア等を破壊するなどし、もって爆発物を使用した(平成七年七月二一日付け追起訴状の第一の事実)

二  平成七年三月一九日午後八時四五分ころ、東京都港区南青山<番地略>所在のマハーポーシャビル前路上において、コーラびんにガソリンを入れその口に布片を装着して点火装置とした火炎びん一本にA6が所携の「チャッカマン」と称するライターで点火し、これを前記ビル一階株式会社マハーポーシャ(代表取締役乙川次郎)店舗内に投てきして同所で発火炎上させ、もって火炎びんを使用して人の身体・財産に危険を生じさせた。(平成七年七月二一日付け追起訴状の第二の事実)

第八  教団に対する大規模な強制捜査が山梨県西八代郡上九一色村所在の教団施設等を対象にして近く行なわれるのではないかと考え、これを阻止しようとして、乙川次郎並びに教団所属の故D、K、J、H、T、Q、S、O、V、R、G、b、a、Zらと順次共謀の上、いずれも東京都千代田区霞が関<番地略>所在の帝都高速度交通営団(以下「営団」ともいう。)地下鉄霞ケ関駅に停車する営団地下鉄日比谷線、同千代田線及び同丸ノ内線の各電車内等にサリンを発散させて不特定多数の乗客等を殺害しようと企て、山梨県西八代郡上九一色村富士ケ嶺<番地略>所在の「ジーヴァカ棟」と称する教団施設内においてサリンを生成した上

一  平成七年三月二〇日午前八時ころ、東京都千代田区神田佐久間町<番地略>所在の営団地下鉄日比谷線秋葉原駅直前付近を走行中の北千住発中目黒行き電車内において、Tが、サリン在中のナイロン・ポリエチレン袋三袋を床に置いて、所携の先端を尖らせた傘で突き刺し、三袋からサリンを漏出気化させて同電車内等に発散させ、秋葉原駅から東京都中央区築地<番地略>所在の同線築地駅に至る間の同電車内又は停車駅構内において、別表一の番号1ないし8記載のとおり、岩田某(当時三三歳)ほか七名にサリンガスを吸入させるなどし、よって、同日午前八時五分ころから平成八年六月一一日午前一〇時四〇分ころまでの間、同区日本橋小伝馬町<番地略>所在の同線小伝馬町駅構内ほか七か所で、同表番号1ないし7記載の岩田ほか六名をサリン中毒により、同番号8記載の岡田某(当時五一歳)をサリン中毒に起因する敗血症により、それぞれ死亡させて殺害するとともに、別表二記載のとおり、児玉某(当時三五歳)ほか二名にサリンガスを吸入させるなどしたが、同人らに対し、同表加療等期間欄記載の各加療等日数を要するサリン中毒症の各傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった

二  平成七年三月二〇日午前八時ころ、東京都渋谷区恵比寿南<番地略>所在の営団地下鉄日比谷線恵比寿駅直前付近を走行中の中目黒発東武動物公園行き電車内において、Qが、サリン在中のナイロン・ポリエチレン袋二袋を床に置いて、所携の先端を尖らせた傘で突き刺し、二袋からサリンを漏出気化させて同電車内等に発散させ、恵比寿駅から霞ケ関駅に至る間の同電車内又は東京都港区虎ノ門<番地略>所在の同線神谷町駅構内において、別表一の番号9記載のとおり、渡邉某(当時九二歳)にサリンガスを吸入させるなどし、よって、同日午前八時一〇分ころ、神谷町駅構内で、サリン中毒により同人を死亡させて殺害するとともに、別表三記載のとおり、尾山某(当時六一歳)ほか一名にサリンガスを吸入させるなどしたが、同人らに対し、同表加療等期間欄記載の各加療等日数を要するサリン中毒症の各傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった

三  平成七年三月二〇日午前八時ころ、東京都文京区湯島<番地略>所在の営団地下鉄丸ノ内線御茶ノ水駅直前付近を走行中の池袋発荻窪行き電車内において、Sが、サリン在中のナイロン・ポリエチレン袋二袋を床に置いて、所携の先端を尖らせた傘で突き刺し、二袋からサリンを漏出気化させて同電車内等に発散させ、御茶ノ水駅から東京都中野区中央<番地略>所在の同線中野坂上駅に至る間の同電車内又は中野坂上駅構内において、別表一の番号10記載のとおり、中越某(当時五四歳)にサリンガスを吸入させるなどし、よって、同月二一日午前六時三五分ころ、東京都新宿区河田町<番地略>所在の東京女子医科大学病院で、サリン中毒により同人を死亡させて殺害するとともに、別表四記載のとおり、浅川某(当時三一歳)ほか二名にサリンガスを吸入させるなどしたが、同人らに対し、同表加療等期間欄記載の各加療等日数を要するサリン中毒症の各傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった

四  平成七年三月二〇日午前八時ころ、東京都千代田区神田駿河台三丁目先所在の営団地下鉄千代田線新御茶ノ水駅直前付近を走行中の我孫子発代々木上原行き電車内において、Oが、サリン在中のナイロン・ポリエチレン袋二袋を床に置いて、所携の先端を尖らせた傘で突き刺し、一袋からサリンを漏出気化させて同電車内等に発散させ、新御茶ノ水駅から同区永田町<番地略>所在の同線国会議事堂前駅に至る間の同電車内又は霞ケ関駅構内において、別表一の番号11及び12記載のとおり、高橋某(当時五〇歳)ほか一名にサリンガスを吸入させるなどし、よって、同日午前九時二三分ころから同月二一日午前四時四六分ころまでの間、同区内幸町<番地略>所在の浩邦会日比谷病院ほか一か所で、サリン中毒により高橋ほか一名を死亡させて殺害するとともに、別表五記載のとおり、斉藤某(当時二五歳)ほか一名にサリンガスを吸入させるなどしたが、同人らに対し、同表加療等期間欄記載の各加療等日数を要するサリン中毒症の各傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった

五  平成七年三月二〇日午前八時ころ、東京都新宿区<番地略>所在の営団地下鉄丸ノ内線四ツ谷駅直前付近を走行中の荻窪発池袋行き電車内において、Vが、サリン在中のナイロン・ポリエチレン袋二袋を床に置いて、所携の先端を尖らせた傘で突き刺し、一袋からサリンを漏出気化させて同電車内等に発散させ、四ツ谷駅から同線池袋駅で折り返した後霞ケ関駅に至る間の同電車内において、別表六記載のとおり、古川某(当時三七歳)ほか三名にサリンガスを吸入させるなどしたが、同人らに対し、同表加療等期間欄記載の各加療等日数を要するサリン中毒症の各傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった。(平成九年一二月二日付け訴因変更請求書の事実)第九 右第八の犯行後、教団に対する捜索が入ったことから、大きな騒ぎとなる事件を起こして警察の捜査をかく乱し、乙川次郎の逮捕を阻止しようと考え、教団所属のH、T、Q、k、m、nらと共謀の上、繁華街の公衆便所内にシアン化水素ガス発生装置を仕掛け、同ガスによりその利用者等を殺害しようと企て、平成七年五月五日午後四時五〇分ころ、東京都新宿区西新宿一丁目西口地下街一号営団新宿駅東口脇男子公衆便所の個室において、Hが、同所備え付けのゴミ容器内に、シアン化ナトリウム約一四九七グラムとともに、濃硫酸入りペットボトルと発火剤として塩素酸カリウム等を充てんしたダンボール小箱在中の時限式発火装置を入れたビニール袋一個を置き、その上に希硫酸約一四一〇ミリリットル在中のビニール袋一個を乗せ、時間の経過により、発火剤がペットボトルから溶け出した濃硫酸と化学反応を起こして発火し、両袋を焼燬して希硫酸とシアン化ナトリウムを反応させてシアン化水素ガスを発生させるよう仕掛けを施してこれらを設置したが、その後、希硫酸入りのビニール袋がゴミ容器外に取り出されるなどして、シアン化ナトリウム入りのビニール袋と別けて置かれ、さらに同日午後七時三〇分ころ、右発火装置からの発火を目撃した者の通報により現場に臨場した同駅職員によって直ちに消火されたため、シアン化水素ガスを発生させるに至らず、殺害の目的を遂げなかった。(平成七年一一月二四日付け追起訴状の事実)

第一〇  判示第九の犯行後、乙川の逮捕が迫っていると思ったことから、判示第九と同様に考え、教団所属のH、k、Q、Tらと共謀の上、治安を妨げ、かつ、本件当時の東京都知事青島幸男等を殺害する目的をもって、

一  平成七年五月九日ころから同月一一日ころまでの間、東京都八王子市中野上町<番地略>△△三〇一号において、新刊書の内部をくり抜き、その中に、爆薬トリメチレントリニトロアミン(別名ヘキソーゲン)を充てんして起爆装置を施したプラスチック製ケースを挿入した上、同書の表紙を開披すると通電し、爆発するように仕掛けた手製爆発物一個を製造した(平成七年一一月四日付け追起訴状の第一の事実)

二  平成七年五月一一日ころ、茶封筒に入れた右爆発物を、東京都新宿区内の郵便ポストから東京都渋谷区松濤<番地略>東京都知事公館内青島幸男宛速達郵便物として投函し、翌一二日午後六時ころ、情を知らない郵便配達人をして郵送先である同公館に配達させ、さらに、同月一六日午後三時三〇分ころ、情を知らない東京都総務局知事室管理係員をして東京都新宿区西新宿<番地略>東京都第一本庁舎七階知事秘書室まで運搬させ、よって、同日午後六時五七分ころ、同所において、都知事あて郵便物仕分け業務担当の東京都総務局知事室秘書担当副参事内海某(当時四四歳)をして右郵便物を開封させ、同人が右書籍を取り出し表紙を開けた際、起爆装置を作動せしめてこれを爆発させ、もって、爆発物を使用し、同人に入院加療五一日間を要する左手全指挫滅切断、右手拇指開放性粉砕骨折、顔面・頸部・両上肢・前胸部・腹部多発挫創の傷害を負わせたが、殺害の目的を遂げなかった。(平成七年一一月四日付け追起訴状の第二の事実)

(証拠の標目)<省略>

(争点等についての補足説明)

弁護人は、判示各事実についてそれぞれ争点をあげて種々の主張をするので、以下、関係証拠に照らし、必要な限度で補足説明する。なお、まず判示の各事実ごとに、弁護人が罪責、犯情として主張する点をも考慮しながら各争点につき検討し、その後に全事実に関する期待可能性等について検討することとする。

第一  判示第一の事実(以下「落田事件」あるいは本項では単に「本件」ともいう。)について

一  弁護人は、落田事件の外形的な事実については、概ね争わないものの、被告人は被害者である落田某(以下「落田」ともいう。)の足を押さえる行為に及んだ時点で落田殺害の共犯関係に入り、幇助の意思をもって右行為を行ったのであるから、被告人は、殺人罪の共同正犯ではなく、幇助犯に該当するにとどまると主張する。

二  関係各証拠によれば、以下の事実が認められる。

1 被告人は、平成六年一月当時、教団の出家信者で、師と呼ばれる地位にあり、東京本部長として教団内で活動していた。

2 i(以下「i」ともいう。)は、平成四年春ころに教団を脱会した元信者であったが、その母親のi'(以下「i'」ともいう。)がパーキンソン病の治療のために教団の病院であるオウム真理教附属医院に入院していたものの、病状が好転しないままであったところ、同医院の薬剤師として、i'の世話をしていた落田から、平成六年一月下旬ころ、i'に危険な治療がなされているなどと聞かされ、同医院から連れ出そうと持ちかけられた。

同月三〇日未明、iと落田は、iの父親が運転する車で山梨県上九一色村所在の「第六サティアン」と称する教団施設(以下「第六サティアン」という。他の教団施設についても同様に適宜略記する。)付近まで赴き、同日午前三時ころ、第六サティアンに忍び込んで三階の医務室からi'を連れ出そうとしたが、その途中で教団信者に発見され、催涙ガスを噴射するなどして抵抗したものの、駆けつけたG(以下「G」ともいう。)など教団信者らに取り押さえられた。Gは、侵入した落田らを取り押さえたことを乙川に報告し、その指示で落田らを第二サティアン三階に連行した。

被告人は、その当時、第六サティアン三階のシールドルームと呼ばれる部屋で寝ていたが、悲鳴を聞いて現場に赴き、騒ぎを知って、自らも乙川に落田とiが騒ぎを起こしたことを報告し、落田とiが第二サティアンに連行されたことから、V3(以下「V3」ともいう。)に運転を依頼して、第二サティアンに赴いた。

一方、右状況についての報告を受けた乙川も、R(以下「R」ともいう。)の運転する車で第二サティアンに向かった。

3 iと落田は、第二サティアンに連行された後、同所三階のエレベーター前付近踊り場において待機させられ、V4らが監視していた。

乙川は、第二サティアンに着くと、同所三階の「尊師の部屋」に入り、落田が所持していたウェストバッグの中身や、落田らの行動、落田がi'と肉体関係を持つなどしたことについて報告を受けた後、その場に集った教団幹部であるV1、故D、V2(以下順に「V1」「D」「V2」もいう。)、G、R、V3、被告人らに対して、「二人は狂人にして帰すか、ポアするしかない。」などと落田とiの両名を殺害する趣旨のことを言い、意見を求めたところ、D、Gらが、「ポアするしかないと思います。」などと乙川の意向に賛成する旨の意見を述べ、反対の意見を述べた者はいなかった。被告人も、乙川の決定に従おうと考え、ポアするということは殺害することであることを認識した上で、「どうせポアをするのなら、さまざまなものの人体実験をした方がいいんじゃないでしょうか。」などと言い、その趣旨を示した。

その後、乙川は、皆の意見を踏まえて、「もし、iが落田とi'との関係を知らないとするなら、iも落田に騙された被害者である。カルマからいってiが落田をポアすべきである。」などと言って、iが落田を殺害すべきであるとの結論を示した。これに対して、反対の意向を示す者はいなかった。

4 そして、乙川の指示で、iが「尊師の部屋」に呼び入れられ、乙川の前に座らされた。乙川は、iに対し、第六サティアンに侵入してi'を連れ出そうとした理由や、落田がi'を連れ出そうとした理由を問いただし、落田とi'の関係を知っているかを尋ねた。これに対して、iが知らない旨答えたことから、乙川は、iに対して、「お前は帰してやるから心配するな。それには、お前が落田を殺すことだ。」などと言って、iに落田を殺害するよう命じた。iは、悩んだ末に、結局自分が無事に解放されることを確認した上で落田の殺害を承諾した。

5 その後、乙川の指示により落田が「尊師の部屋」に連れて来られた。被告人らは、部屋にビニールシートを敷き、落田は、両手に前手錠をされた状態で、その上に座らされた。

iは、落田の目を見ながら殺害することができなかったことから、周りにいた者から受け取ったガムテープで落田に目隠しをした。そのころ、ロープで落田の頸部を締め付けて同人を殺害することに決まったが、その前に、乙川の指示で、落田に催涙ガスを浴びせかけることになり、iにおいて落田の頭部にビニール袋を被せた上、そのビニール袋内に催涙ガスを噴射した。この後、iは、周りにいた者からロープを受け取り、これを落田の頸部に一回巻き付けて締め付け、さらにGの指示で、二つ折りにしたロープの輪になった末端に右足をかけ、他方の末端を両手で引っ張る形で落田の頸部を締め続け、そのころ、落田を窒息死させて殺害した。

6 その際、落田は、催涙ガスをかけられ、頸部を締められて激しく暴れ出したため、落田が暴れないように、H(以下「H」ともいう。)が落田を羽交い締めにするなどして押さえ付け、周囲にいた他の男性幹部らも落田の手足などを押さえ付けるなどした。被告人も、落田の足首部分を両手で押さえた。そのうち、落田の動きがとまり、Hが乙川に対し、落田が失禁したと報告したため、被告人は、落田が死亡したものと思い、落田の身体を押さえ付けるのをやめて離れた。

7 犯行後、iは、乙川から、一週間に一回教団道場で修行を行うこと、事件について他言しないことを命じられた上で帰されることになり、被告人とGが第六サティアンの外でiらを待つ同人の父親のところまで送り届けた。被告人は、父親に対して、「落田さんは、i'さんの治療の面倒を見るために残ることになった。」などと説明し、iを送り届けた後、第六サティアンにいる乙川にその旨報告した。

三  以上の事実関係に照らすと、被告人は、iと落田が第六サティアンに侵入し、催涙ガスを噴射するなどして抵抗したものの、結局取り押さえられたことを知って乙川に報告した上、自らの意思で落田らが連行された第二サティアンに移動し、「尊師の部屋」内で、乙川から落田らを殺害するかどうかと聞かれた際には、他の教団幹部と共に殺害に賛同する方向の意見を述べて、乙川が落田らを殺害するつもりでいることを認識しながら、これを受け入れる決意をし、さらに、その後の経緯に伴い、乙川がiをして落田を実際に殺害させようとしていることを認識しながら、その場を離れることなく、同室内にとどまり、現にiが落田の頸部をロープで締め付けて殺害しようとした時には、その場にいた者と共に、苦しがり、抵抗して暴れる落田の足首部分を両手で押さえ付けたものであり、その結果、これらの行為が一体となって落田は窒息死するに至っているのであるから、被告人は、乙川の意を受け、他の教団幹部らやiと順次共謀の上、落田殺害の実行行為を行ったと認めることができる。

なお、弁護人は、被告人の関与について、iが公判で供述するように、被告人がiの腕を取って部屋に連行したこと、窓を開けるように指示したこと、現場にいた者に落田の身体を押さえるように指示したことはいずれもなかったと主張しているところ、関係証拠を検討しても、被告人の右のような関与を供述しているのはiのみであり、その供述自体、捜査段階から合理的な理由を示すことなく変遷している上、サティアンに侵入して捕らえられ、自らの手で落田を殺害しなければならなくなった状況下にあったiの心境に照らせば、右の点に関するiの供述を直ちに全面的に信用することは難しく、被告人にこれらの行為があったとまでは認定できない。しかし、これらの関与行為がなくとも、被告人が落田殺害の実行行為を行ったとの認定は左右されない。

そうすると、右のような被告人の客観的関与の状況、その態様及び被告人の認識からすると、被告人は、落田殺害について、幇助犯にとどまるものではなく、共同正犯としての責任を負うというべきである。

四  これに対し、弁護人は、落田殺害が具体化されたのは、乙川がiに落田殺害を命じた時であるから、共犯者間の共謀はそれ以降にしか成立しないはずであるところ、それより後に被告人に正犯としての共謀が成立した経緯はなく、被告人が落田殺害に加担したのは同人の足を押さえにかかったときであり、また、その際には被告人はiの落田殺害を助ける意思のみを有して幇助行為を行ったにすぎず、正犯の意思は有してはいないと主張する。

確かに、前記認定の事実関係によれば、当初乙川及び教団幹部らが集まった時点では、落田及びiの両名の殺害が謀議されていたところ、途中から乙川がiを殺害せずに、iに落田を殺害させることを命じ、落田の具体的な殺害実行者が決まっていくという経緯をたどっている。しかしながら、本件で問題とすべき落田殺害に関する限り、これは落田殺害の謀議の結果を前提として、その実行方法が具体化したものにすぎず、乙川の右指示以降にしか落田殺害の共謀が成立しないということにはならない。そのこと自体の当否は全く別論として、当時の乙川ないし教団自体にとってみれば、iと比較するとき、落田の方が積極的により敵対的な行動に出たものとみられるのであるから、このような経緯をたどったからといって、それが特段不自然というわけではなく、当初の謀議が解消されたと評価されることにはならない。本件の具体的状況、経緯の下では、乙川が落田を「ポアするしかない。」と言い、被告人がこれを了承した時点において、被告人と乙川ないしその場にいた共犯者との間に共謀が成立し、その後、落田殺害を了承したiとの間での共謀が順次成立したとみるのが相当である。弁護人の主張は採用できない。

五  よって、被告人は落田殺害について共同正犯の責任を負うものと認められる。

第二  判示第二ないし第四の各事実について

一  弁護人は、被告人は、VXガスをかけるだけでは人は死亡しないとの認識を有しており、人の死の結果発生について表象も認容もしていなかったのであるから、被告人には殺意はなく、傷害罪あるいは傷害致死罪が適用されるべきであり、また、被告人の行為は、乙川から指示されたとおりに、同人が選定したメンバーの中で一番高い地位にあったGの指示に従って見張り役を務めている程度にすぎず、いずれも共同実行行為は行っておらず、共同正犯ではなく、幇助犯にとどまるものであると主張する。

二  判示第二ないし第四の各事実については、その外形的事実に概ね争いがないことから、被告人の関与状況を中心にみると、関係各証拠によれば以下の事実が認められる。

(判示第二の事実(以下「水野事件」ともいう。))

1 乙川は、教団の武装化計画の一環として、平成六年一、二月ころ、J(以下「J」ともいう。)らに対して、VXガスの製造方法の調査を指示し、生成が可能であるとの報告を受けるなどして、その製造をも指示した。Jは、同年九月ころには、VXガスの製造に成功し、そのことは、K(以下「K」ともいう。)を通じて乙川に報告された。

2 同年一一月ころ、かねてから出家を強く拒んでいたA7(以下「A7」ともいう。)が、教団に対し、お布施として交付した金員の返還を求めて民事訴訟を提起したことを知った乙川は、A7と親しくしていた水野某(以下「水野」ともいう。)が、A7の出家を妨害し、その民事訴訟等の支援をしていると思い、VXガスを使用して水野を殺害しようと企て、Jに犯行に使用するためのVXガスを早急に製造するように指示した。

3 被告人は、その当時教団組織のひとつである諜報省の長官の地位にあった。被告人は、同年一一月ころ、乙川から水野の身辺調査を命じられ、諜報省の部下を使ってその調査を行い、乙川にその結果を報告した。また、自らもo(以下「o」ともいう。)にテープで水野の声を確認するよう依頼するなどした。

そして、同月二六日、被告人は、G、Kと共に第六サティアン一階に集められ、乙川から、「A7は、水野の庇護の下に裁判を起こしている。水野にVXをかけてポアしろ。そうすればA7親子は目がさめてオウムに戻ってくる。これはVXの実験である。」として、水野殺害を命じられた。その際、乙川は、被告人が実行役をすること、被告人が失敗した場合には教団自治省に所属し自衛隊に勤務していたA2(以下「A2」ともいう。)に実行役をさせること、VXが実行役の身体に付着した場合の治療役として、Kのほかに医師であるHをも現場に同行すること、被告人の部下である諜報省の者を犯行に加えることなどを指示した。

被告人は、平成五年の秋ころ、戊川二郎からVXという化学兵器があって、一滴皮膚につくと人が死ぬらしいという話を聞いており、VXにはかなりの殺傷力があるとの認識を有していたところ、乙川から、殺害を意味するポアの実行役を命ぜられ、VXの実験とはいえ、水野を殺害するかもしれないことを認識したが、乙川に命じられた以上、やるしかないと考えた。

4 平成六年一一月二六日、被告人は、東京都杉並区所在の今川アジトに赴く途中の車内において、Hから受け取った注射器で、その使い方を練習した上、今川アジトでx、Z(以下順に「x」「Z」ともいう。)に乙川の指示で水野をポアする旨の話をして、xらを犯行に加え、Zに対して、レンタカーを借りるよう指示した。そして、被告人とGが実行役、xが水野の監視役、Hが待機役などの役割分担を決め、水野宅に向かった。水野宅付近で、被告人は、VX塩酸塩の溶液が入った注射器を受け取り、また、VXが体内に浸透するのを防ぐためのビニール製手袋を受け取った。被告人は、G、xと共に、水野宅近くの某マンションの屋上で水野宅の見張りを始めた。夕方、水野が自宅から出てきたので、被告人は、注射器を持って水野に近づき、後ろを通り抜けたが、水野と目が合ったような気がしたことから躊躇するなどして実行には及ばなかった(このことを、以下「第一回襲撃」という)。

5 その後、Kは、上九一色村の教団施設(以下単に「上九」ということもある。)にいったん戻り、被告人らは、今川アジトに戻った。そして、被告人、G、Hらで犯行計画の一部見直しを行い、実行役は、被告人に代わってA2が行うこと、水野宅近くの空き家を待機場所とすることなどを決め、被告人は、x、Hと共に、深夜、その空き家の下見をした。

翌二七日、被告人は、乙川からの電話で、「ミラレバ(Gを指す)を補佐しろ。」と言われた。被告人ら五人は、水野宅付近の駐車場に赴き、xがA2を迎えに行って、六人が合流した。A2は、G、x、Hらの話から、殺害を目的としていることが分かったが、断ることができず、実行役を承諾した。被告人は、実行役のA2と補助役のGが待機する空き家を確保したこと、xとZが空き家で見張るので、水野が出てきた時にかければよいこと、逃走の際のことなどを話した。

しかし、その日は、水野が外出しなかったことから実行に至らなかった。

6 翌二八日、被告人らが前日同様に水野宅を見張っていると、水野が自宅から出てきたので、A2が背後から水野に近寄り、頭髪のないその後頭部付近に注射器でVX塩酸塩溶液をかけた。

被告人らが上九の乙川に報告に行くと、乙川は、「よくやった。」と言ったが、被告人が、乙川の指示でその後の水野の容態を調査したところ、水野の身体には異変はなく、襲撃は失敗に終わったことが判明した(このことを、以下「第二回襲撃」という。)。

7 被告人から第二回襲撃が失敗に終わった旨の報告を受けた乙川は、同月三〇日ころ、Jらを呼び、その理由を問いただしたところ、使用したのがVXの塩酸塩であったことから効果がなかったと言われ、Jに純粋なVXを製造するよう指示した。ほどなく、Jは、VX溶液約五〇グラムの製造に成功し、そのことが乙川に報告された。

8 同年一二月一日ころ、乙川は、G、Hを第六サティアン一階に呼び出し、「新しいVXができた。それで水野をポアしろ。」と命じ、A2を実行役とするよう指示し、被告人は、Gからその指示を聞かされた。

Hは、Kに対し、犯行に使用するためVXを注射器に入れて準備するように依頼し、Kは、犯行計画を知った上で、JからVXの入った容器を受け取り、VX溶液を注射器に入れてHに渡した。

9 同日夜、今川アジトに、被告人、H、G、A2、x、Zが集合し、概ね前回と同様にして水野にVXをかけることを確認した。被告人は、空き家で監視する役をZに代わってxが行うよう指示した。Hは、新しいVXができたので効き目があると説明した。

10 同月二日、被告人らは、今川アジトから水野宅付近に赴き、Gらが空き家に入り、被告人、Hらがワゴン車で待機した。

被告人は、周囲の状況を見渡す場所を探すために、ワゴン車を降りて、付近のビルに上がってみるなどしていた。その間の午前八時三〇分ころ、水野がごみを捨てるために自宅から出てきたので、A2とGは水野に近づき、Gが水野の気をそらしたすきに、A2が予め一部捨てた後の注射器に入っていたVX溶液残り全部を水野の後頭部付近にかけた。

被告人は、実行が成功した旨の無線の声を聞き、xと車で逃走し、途中水野宅の方に救急車が行くかを見張っていたところ、水野方付近に救急車が来たことを確認した。

水野は、自宅に戻って間もなく、けいれん等の症状を起こし意識を失うに至ったため、同人方にいたA7の通報により、救急車で病院に搬送され、当初は身体硬直や下顎呼吸がみられる重篤な状態で生命の危険も大きかったが、ようやく一命を取り留め、平成七年一月一一日には退院に至った。

(判示第三の事実(以下「濵口事件」ともいう。))

1 乙川は、教団大阪支部や名古屋支部の信者の中には、西信徒庁長官や支部長などの幹部を批判し、教団の修行を軽んじる行動をとるなどした者がおり、その活動の中心にいるのが大阪支部の在家信者であったA8(以下「A8」ともいう。)で、それを背後から操っているのは濵口某(以下「濵口」ともいう。)であり、濵口が公安警察のスパイである旨の報告を受け、教団の分裂を画策する濵口が教団にとって邪魔な存在であると考えて、同人を殺害しようと企て、平成六年一二月八日ころ、被告人及びGを上九一色村の教団施設にある自室に呼び出し、「A8が教団分裂を図った。操っているのは大阪にいる濵口という男だ。濵口が公安のスパイであることは間違いない。VXを一滴垂らしてポアしろ。後はお前たちに任せる。前のメンバーでいいんじゃないか。」などと言って、濵口の殺害を命じた。

2 被告人とGは、乙川の命を受けて、Gの居室で犯行の具体的な打合せをし、犯行日は、被告人が札幌で予定されていた信者勧誘のワークを終えた後とすること、犯行現場に行くメンバーを、被告人、G、H、A2、x、Zとし、A2を実行役にし、大阪の地理に詳しい諜報省所属のA9を道案内役に連れて行くことなどを決めた。そして、その後、被告人は、Z及びA9に対して、Gの指示に従って大阪へ行くよう指示した。

3 同月一〇日、Gは、Z及びA9と共に大阪に行き、濵口の勤務先や自宅の下見をし、さらに、翌一一日、Zに指示して、大阪で開催された教団主催のコンサートの警備にきていたA2をホテル◎◎に連れて来させた。

一方、被告人は、同日朝、xに対して、「A8という人が教団の分派活動をしていて、その背後にいるのが公安のスパイであるので、ポアする。乙川の指示である。大阪で実行するので、Hと一緒に車で大阪に行くように。」と指示した後、札幌に向かい、札幌から電話でHに対して、xの話を聞いて行動するように伝えた。同日、最終の飛行機で大阪に入った被告人は、空港に迎えにきていたGらと合流し、濵口の勤務先を確認し、さらに、教団大阪支部の信者B3から濵口の特徴を聞き、自宅にいた濵口の姿を確認した。

また、xは、Hに、VXを準備して大阪に行って欲しいとの被告人の意向を伝え、Hは、VX用の治療薬等を用意した上、水野事件に使用した残りのVX溶液をJから受け取り、注射器二本にその溶液を吸入して準備を整え、xと二人で大阪に赴き、翌一二日未明に、新大阪駅で被告人と合流し、濵口宅付近で見張り場所を見つけた後、ホテル◎◎でGらと合流した。

4 同日午前五時ころ、被告人、G、H、A2、x、Zの六人が一室に集まり、被告人とGが、濵口が公安のスパイであるからポアすることの説明をし、濵口の出勤途中に、ジョギングを装って近づきVXをかけること、A2が実行役で、Gが補助役をすること、Zが車の運転役、Hが治療役、xと被告人が見張りをするなどが決まった。このとき、実行役のA2が、熱と咳で苦しそうであったことから、Hや被告人が実行役を代わろうかという場面もあったが、Gの指示により結局実行役はA2がすることになり、A2は予防薬を服用した。

5 同日午前六時ころ、被告人らは、ホテルを出て濵口宅付近に赴き、被告人とxがビルの屋上から濵口宅を監視し、残り四人が車の中で待機した。午前七時一〇分ころ、濵口が自宅を出たのを見たxが無線で車に連絡し、A2とGが、濵口を追いかけ、背後から注射器内のVXの溶液全部を皮膚が露出しているその後頸部付近にかけた。その際、A2が注射針を濵口の首筋に接触させてしまったため、濵口は大声で「痛い」と言い、A2らを追いかけたが、突然路上に倒れ込んだ。

被告人は、xと共にビルの屋上からワゴン車に戻ったところ、A2らが濵口に追いかけられたことを聞き、A2らが捕まっていないか探し回った。その時、救急車が来たのを見たので、A9に濵口の勤務先のある駅に行ってみるよう指示した。また、A9の携帯電話に、乙川から被告人に対してすぐに電話するようにとの連絡があったことを聞き、乙川に事件の報告をした。

ホテルに戻って、A2が針を刺したとの話になり、早急にホテルを離れることになったが、被告人は、Gに依頼され、Hと犯行に使用した服などを処分した。

6 濵口は、路上に倒れ込んだところを目撃者の通報により駆け付けた救急車で病院に搬送されたが、意識が戻ることなく、同月二二日死亡するに至った。この事実は間もなく、Hから被告人にも告げられた。

(判示第四の事実(以下「永岡事件」ともいう。))

1 永岡某(以下「永岡」ともいう。)は、その長男である永岡三郎(以下「三郎」という。)が教団に入信し、出家目的で家出したことから、三郎を脱会させようと試み、さらに、平成元年一〇月には、オウム真理教被害者の会(以下「被害者の会」という。)を結成し、会長に就任して、以後、信者の連れ戻しなどの活動を行っていた。平成二年一月ころ、三郎は、永岡の協力を得て、教団を脱走し、その後、永岡と共に、信者に脱会を呼びかけるなどの活動を精力的に行うようになった。

教団では、かねてより被害者の会の活動を敵視していたが、乙川は、平成六年一二月ころ、三郎が教団信者の連れ戻しに直接関与しているらしいとの報告を受けるなどして、永岡及び三郎に対する敵意を募らせ、これを殺害しようと企て、同月二九日ないし三〇日ころ、上九一色村の教団施設の自室において、Gに対して、「今度は永岡親子がターゲットだ。どちらでもいいからVXをかけてポアしてこい。」と命じた。Gは、同月三〇日ころ、被告人に対して、乙川の命令を伝えた。

2 被告人は、Gと共に、永岡宅周辺の下見をし、今川アジトにおいて、x、Zに乙川の指示を伝え、犯行に加担する旨の了解を得、さらに、諜報省の部下に永岡宅の見張りを命じた。また、Gは、同月三一日ころ、A2に対して、犯行計画を打ち明けて実行役を指示し、その承諾をとり、A2、Hと共に富士吉田市の陸上競技場で予行演習を行うなどした。また、Hは、上九一色村の教団施設で、Jから犯行に使用する水野、濵口両事件に使用した残りのVX溶液を受け取り、注射器二本に吸入してGに渡した。そして、被告人、G、A2、x、Zは、永岡宅周辺の下見をしたが、永岡宅が留守の様子だったので、犯行の実行は後日とすることにした。

3 被告人は、平成七年一月三日、永岡宅の見張りをしていた諜報省の者から、永岡が帰宅したとの報告を受けたので、Gに連絡をとった。

同日夜、被告人、G、x、Z、A2は、今川アジトで、実行役をA2、その補助役をZ、運転手役をG、見張り役を被告人とxとすることなどの役割分担などを決めた。

4 被告人らは、翌四日、今川アジトから、二台のレンタカーに分乗して永岡宅へ向かった。被告人は、午前一〇時三〇分ころ、永岡が年賀状を投函するために自宅から出てきた姿を確認し、無線機でGに連絡した。A2とZは、自宅から出て待機していた車近くを通り過ぎた永岡を追いかけ、投函を終えて自宅に戻ろうとした永岡に対して、A2が背後からその後頸部付近に注射器内のVX溶液全部をかけた。

5 永岡は、自宅に戻った昼食後から気分が悪くなり、午後二時前ころ、救急車で慶応大学病院に搬送され、一時は生命の危険もある状態であったが、その後集中治療室で治療を受けるなどした結果、快方に向かった。

三  以上から、被告人の殺意について検討する。

1 水野事件について

弁護人は、水野事件の際には、被告人は、それ以前の第二回襲撃事件でVXを水野にかけたものの、死の結果が発生しなかったことから、VXをかけただけでは人が死亡するとは思っておらず、傷害の故意を有していたにとどまる旨主張する。

しかし、証拠によれば、被告人は、水野について、平成六年一一月の当初の段階において乙川から直接に「ポアしろ。」と命じられていたとおり、水野事件においてGから伝えられた乙川の指示についても、その指示内容が水野を殺害することである旨を十分に認識していた(公判供述七三三〇丁等)こと、また、被告人は、それまでにVXが化学兵器として使用され、一滴でも皮膚に付着すれば人が死亡する可能性がある物質であることを聞き知っていたこと(このことは、xが、VXの毒性について、一滴皮膚に付いただけで死んでしまうと被告人から聞いたことがあった旨述べているところ(公判供述二一九四丁)からも、十分裏付けられる。)、実行に際して、共犯者らがVXの中毒等に陥った場合の対策として、予め治療役として医師のHを同行するような計画であった上、被告人は、第一回襲撃の実行の際にはVXが体内に浸透しないようにゴム手袋を渡され、実行にあたっては、さらにその上から軍手をする対策をしていたこと、第二回襲撃後の同年一二月一日ころ、被告人は、新しいVXができたと聞き及んでおり、水野事件には新しいVXが使用されることを認識していたこと、Hも今度は新鮮だから効く旨述べていたことが認められる。

加えて、被告人は、公判廷において、VXで人が死亡するかもしれないと認識していたと明確に述べ(公判供述七三三三丁)、しかも、自分が実行役を指示されて実行しようとしたが実行できなかった第一回襲撃時の心境について、感覚的にぎりぎりのところで実行できなかった旨供述するなど(公判供述四四四〇丁等)、それまで違法行為に繰り返しかかわってはいたものの、実質的に初めて人の生命に危害を加える直接の役割を指示され、それが殺害行為になり得ると認識していたことを前提として、どうしても体が動かなかったとの趣旨を述べているのである。また、殺害目的について、乙川は結果が出るまでやり続けるんだろうと思っており、自分は指示がある以上それに従わなければならないと思っていたとも供述する(公判供述七三三一丁等)。

そうすると、被告人は、VXをかければ、人が死亡するであろうことは十分に認識していたものと認められ、乙川の指示に従って水野殺害を実行しようとしていた被告人には、水野殺害の故意があったと認められる。

2 濵口事件について

弁護人は、濵口事件の際には、被告人は、新しいVXを使用した水野事件においても水野が死亡しなかったことなどから、そのVXでは人が死亡するとは認識していなかったし、水野が死亡しなかったことを聞いた乙川が「今回はポアできなかったが、カルマ落としになって成功だ。」と言うのを聞いて、殺害という結果が出なくとも、とにかくVXをかけるという乙川の指示に従えばよいと考えたもので、濵口を殺害することまでは意図していなかったなどとして、被告人には傷害の故意しかなく、傷害致死罪が成立するにとどまると主張する。

しかし、右1で説示したところに加え、被告人は、濵口事件当時、水野が被告人らのかけたVXの影響で入院中であることを認識していたこと、水野事件後の右乙川の発言後もなお、乙川から直接に濵口をポアしろと明確に命じられ、濵口をポアする理由として乙川が述べたところからしても、それが殺害を意図していることを十分に認識していたこと、濵口事件においても、治療役としてなおHが同行し、実行方法を検討するに際しても、VXが誤ってかかった場合の危険性を踏まえた協議を行っていること、一滴でも皮膚に付着すれば死亡するとまで話していたVXにつき、注射器内にある一ないし1.5ミリリットル全部をかけることを前提としていること、被告人自身が、治療をすれば、助かるかもしれないが、処置が遅れたりすれば濵口が死亡するかもしれないと思っていたと公判廷で述べていることなどの、関係証拠から認められる諸事情を総合すれば、被告人には濵口殺害の故意があったことは優に認められる。

3 永岡事件について

弁護人は、被告人は、濵口事件においては、VXをかける際に、注射針が刺さったために濵口が死亡したのであり、単に、VXをかけるだけでは水野が死亡しなかったことから、針が刺さらない注射器を用いる以上、永岡にVXをかけても死の結果は生じないと思っていたのであって、殺害の故意がなく、傷害の故意にとどまると主張する。

しかし、右1、2で説示したところに加え、被告人が、Gから指示を受けた際、乙川が永岡を殺害しようとしていることを認識し、乙川の指示を実行しようとの意思をもっていたこと、濵口が死亡したことを認識していたこと、被告人自身も、永岡に対しては、教団にとって敵対する人物であることを十分認識し、ポアすることについては理由があると思っていたこと、被告人が、永岡事件においても、VXで人が死亡することを認識していたと述べていることなどの関係証拠から認められる諸事情からすれば、永岡に対しても殺意があったことは明らかである。

4 以上に対し、弁護人は、被告人の各殺意を認める公判供述は具体性がなく、にわかに信用できないと主張するが、被告人の右供述は、弁護人の主張を前提とした上での質問に対しても一貫して死に対する認識があったと述べ、裁判所からの確認に対しても同様に答えている(公判供述七三三二丁)のであって、被告人が、自己の認識と異なることを無理に述べたものとは考えられない。

また、弁護人は、共犯者の共通した認識として、科学技術省で造られたものに対する根強い不信感があり、VXの効果についても疑問視されており、被告人も同じであった旨主張する。しかし、本件各犯行に使用されたVXが高度の殺傷能力を有していたことは、何よりもVXをかけられた被害者三名のその後の状況が雄弁に示すところであり、水野らにしても、手当が遅れれば死亡の危険があったことは客観的に認められる事実である(公判供述二四八四丁、四四〇二丁等)。そして、確かに、被告人らの認識として、そのような疑問や不信感を有していたことは十分窺えるところであるが、それは信頼の程度が低いということであって、効用や機能が全くないとか、常にそうであるというものではない。そうでなければ、被告人が自らVXを扱う際に手袋をしたりするなどの注意を払う必要はないはずであり、弁護人の主張を考慮しても、右認定は左右されない。

四  被告人の正犯性について

弁護人は、水野、濵口、永岡事件の各犯行について、被告人は、いずれも殺害行為に直接関与していないこと、被告人は、各実行行為が行われた際、水野事件においては、周囲の目撃者の存在を確認できる場所を探している途中であり、濵口事件においては、現場付近の見張り役をしていたものの、殺害が実行された際には現場を離れていたのであり、いずれも殺害行為が実行されていること自体を認識していないことから、到底正犯とはいえず、また、永岡事件においては、見張り役を継続し、永岡が自宅から出てきたところを無線連絡して見張りとしての役割を果たしたが、それを前提としても、正犯とはいえず、いずれも幇助犯にとどまる旨主張する。

1 前記認定の事実によれば、各犯行は、乙川からの命令で教団の信者らが各自の役割分担の下に行った組織的、計画的犯行であるところ、被告人は、現場実行者らの中にあっては、乙川から直接あるいは乙川から直接指示されたGから第一に指示を受けるなど、共犯者の中でも、Gに次ぐ立場にあり、サブリーダー的存在を果たしている。

2 そして、被告人は、①水野事件では、事件以前から水野に関する情報収集を行い、第一回襲撃では、乙川から直接に水野殺害の指示を受け、下見をし、VXを水野にかけるには至らなかったものの実行役を務めた経緯を経ていること、その後も、Gから水野事件実行についての乙川の意思を伝えられて犯行に加担し、さらに、諜報省の部下であったxやZに犯行への加担を持ちかけて了解を得ていること、犯行の実行にあたっては、現場に行く者との間で役割分担を確認したり、下見をしたりし、その際にGと共に中心的立場にいたこと、犯行時には無線を携帯して、現場周辺で見張りの場所を探していたこと、②濵口事件については、乙川からGと共に濵口殺害を直接命じられ、xやHに加担を持ちかけていること、Gと犯行の手順を決め、濵口を確認したりした上で、他の共犯者らと役割分担を定め、その際実行役のA2において体調が悪いのを見て、自らが実行役をする旨の発言をしたり、現場においては濵口宅の見張りを交替で務めていること、③永岡事件においては、Gから乙川の命令を伝えられ、水野事件や濵口事件と同様にGと共に下見をしたり、諜報省の部下に犯行への加担や協力を持ちかけて、それを実現させ、共犯者間で役割分担や連絡方法を決め、犯行時においても見張りをし、永岡の動向を無線連絡したことなどが認められる。

加えて、被告人は、水野に対する第一回襲撃の際に、実行に至らず、乙川から電話で、お前はどうしようもないなどと叱責されるなどしたことから、その後、なんとかそれを挽回し、乙川の意図を実現できるようにしなければならないと考えて、犯行の成功に向けて行動していたことが認められる。

3 そうすると、被告人は、殺害行為を他に見とがめられることなく、円滑かつ効果的に実行するために、複数のメンバーによる綿密な役割分担の下に組織的かつ計画的に遂行された各犯行に際して、複数名の部下を含むメンバーの相当数について自ら犯行へ加担するように持ちかけて承諾させ、各人の具体的な役割分担を定めるにあたって主要な役割を果たし、自らもそのようにして共犯者間で決められた役割分担に従って行動をしたものである上、各犯行で行った行為は、犯行実現に向けての重要な行為であるといえるから、以上のような、被告人の関与の状況、その態様に加え、右のように被告人が犯行の実現を意図して、積極的に各犯行に関与しようとしていた経緯やその認識からすると、被告人は、乙川からの指示を直接あるいはGを介して受け、犯行の実行を了解した時点で乙川らと共謀を遂げ、以後他の共犯者と順次共謀して本件を遂行したものと評価するのが相当である。

4 これに対して、弁護人は、共犯者の人選や役割分担は乙川が決めたものであって、被告人は単にGを補佐しろとの乙川の意図に従い、犯行の指導者であるGに従っただけに過ぎず、いずれも実行される現場を全く認識していないと主張する。

確かに、A2を実行役とすることは乙川の指示であったことが認められる。しかし、乙川が諜報省の人間を使えと言ったのを受けて、x、Zを選任したのは被告人自身であり、乙川は諜報省の誰を何人犯行に加えるかまでは明確には指示しておらず、また、役割分担の概要は乙川の指示で暗黙に了解できるとしても、具体的な役割、行動等については、その都度状況に応じて被告人らが決めているのであって、被告人が乙川の指示に単純に従っただけであるとはいえない。また、実行の現場を目撃、認識していないのは、被告人が周囲の見張りをしようとした結果、実行を認識できる場所にいなかったり(水野事件)、たまたま用を足しに行ったことなどから現場を見ていなかった(濵口事件)だけであり、被告人の役割に照らせば不自然な結果ではなく、それをもって正犯とはいえないとの主張には理由がない。

五  以上のとおりであり、証拠上認められる共犯者の認識を考慮しても、被告人は、水野、濵口、永岡事件の各犯行について、共謀共同正犯の責任を負うものと認められる。

第三  判示第五の事実(以下「假谷事件」あるいは本項では単に「本件」ともいう。)について

一  本件公訴事実の要旨は、被告人は、判示第五のとおり、乙川やHらと共謀の上、假谷某(以下「假谷」ともいう。)を不法に逮捕監禁し、そのころ、第二サティアン内において、大量に投与した全身麻酔薬の副作用である呼吸抑制、循環抑制等による心不全により同人を死亡させたというものである。これに対して、弁護人は、被告人は、假谷を第二サティアンまで拉致する行為に関わったものであるが、假谷の死亡はHないしOの重過失行為によって引き起こされたものであり、被告人の右行為と假谷の死亡との間には因果関係が認められず、また、被告人には假谷の死亡についての予見可能性はなかったのであるから、被告人には逮捕監禁致死罪は成立せず、逮捕監禁罪が成立するにとどまると主張する。

当裁判所は、関係証拠に照らし、被告人には逮捕監禁罪が成立するにとどまると判断したので、以下必要な範囲で説明する(なお、本項第三において単に月日のみを記載したものは平成七年である。)。

二  関係各証拠によれば、假谷の死亡に至る経緯、被告人の本件に対する関与等について、以下の事実が認められる。

1 假谷の実妹A3(以下「A3」ともいう。)は、平成五年一〇月、教団に入信し、平成六年三月ころから平成七年一月ころまでの間に、教団に対してお布施として約六〇〇〇万円を寄付していたが、A3を担当する教団東信徒庁長官oは、A3がさらに多額の財産を有していることを知り、A3を出家させてその財産を教団に寄付させようとし、同年一月中旬ころから、A3に執拗に出家の勧誘を始め、薬物を使用したイニシエーションを受けさせるなどして出家を承諾させ、以後、東京都港区南青山所在の教団総本部の道場に寝泊りさせていた。

このような状況に置かれたA3は、財産を教団に取り上げられてしまう危倶感を抱いて教団から脱会することを決意し、同年二月二四日、右道場から外出し、假谷にそれまでの経緯を説明して教団からの脱会を相談し、以後教団関係者から身を隠していた。

A3が道場から外出したまま連絡がないとの報告を受けたoにおいて、かねてoから依頼されてA3との面談を行うなどしてA3との関わりを持っていたM(以下「M」ともいう。)及び被告人が大臣を務める教団諜報省所属のサマナ見習いであったA5らとA3の行方を探した結果、o及びMは、目黒公証人役場の事務長である假谷がA3の実兄であり、假谷がA3を匿っている可能性が高いと判断した。また、この途中から、被告人もMらに頼まれてA3の自宅を確認したり、目黒公証人役場付近に出向いたりした。

2 同月二七日から二八日にかけての深夜、教団の第二サティアン三階の第二瞑想室で会議が開かれ、o及びMが假谷尾行の状況などについて乙川に報告した。そして、会議後の同月二八日午前三時ころ、同施設三階の尊師瞑想室に乙川、D、o、M及び被告人が集まった際、Mらにおいて、假谷がA3を匿っている可能性が高いとして、假谷を拉致してA3の居場所を聞き出すことなどを乙川に相談し、乙川は、Mに対してA3の居場所を聞き出すために假谷を拉致して上九に連行することを命じた。その際、乙川は、A4(以下「A4」ともいう。)やXらを実行者として指示するなどし、さらに、Mが手助けを欲したところから、被告人に対してもMを手伝うように命じ、被告人はこれを了承した。また、拉致した假谷を薬で眠らせて上九まで連行するために、Hを同行することが決まった。

3 被告人は、同日早朝、Mらと上九を出発し、東京都世田谷区赤堤所在の×△コーポ一〇六号室において、oに対し拉致に使用するための車の手配を依頼するなどした後、今川アジトに移動した。今川アジトにおいて、被告人は、x、Z、A5に假谷を拉致する計画に加わるように指示して、その了承を得るなどし、また、M、合流したHの三人で目黒公証人役場付近で假谷を拉致することに決め、準備を整えた。

4 同日午前一〇時過ぎころ、被告人、M、H、x、Z、A5は、ワゴン車(デリカ)と乗用車(ギャラン)の二台のレンタカーに分乗して今川アジトを出発し、途中、X、A4と順次合流した。そして、目黒公証人役場付近に停車したデリカ車内において、M、Z、A4が假谷をデリカ内に押し込み、Hが車内で假谷に麻酔薬を投与し、被告人が周囲の状況を観察し、危険が生じた際には中止命令を出すことなどの役割分担が決められた。

5 被告人は、ギャランに乗車して周囲の観察をしていたが、同日午後四時三〇分近くになり、人通りが多くなってきたことなどから、人目につかない見張り場所を探そうとして、ギャランからひとり降りて見張り場所を探し始めた。

被告人が見張り場所を探している間、假谷が目黒公証人役場から出てきたことから、Mらは手はずどおりに假谷をデリカ車内に拉致し現場を離れた。走行中、Hは全身麻酔薬であるケタラール水溶液を假谷に注射し、假谷は、間もなく意識を喪失した。一方、無線で連絡を受けた被告人は、犯行現場付近に戻ると、既にデリカがいなくなっていたことから、假谷の拉致に成功したことを理解し、ギャランを運転していたXと二人で現場を去った。

6 被告人は、携帯電話でデリカと連絡をとり、環状八号線沿いのファミリーレストラン「藍屋」の駐車場で待ち合わせることにし、途中、假谷運搬に使用しようとしてoに手配を依頼しておいた車を受け取り、それに乗車して藍屋の駐車場に行き、デリカと合流した。この時、被告人は、デリカ車内で、假谷の呼吸が一時停止したことを聞かされたが、Hの措置で回復したことを知り、また、Hから特段問題はないと聞かされた。一方、被告人が乗ってきた車は、假谷を拉致したデリカと同車種であったため、假谷を乗せ替える車には使えないということになった。そこで、被告人は、諜報省の車(マークⅡ)を使用することを思いつき、Xと共に、oに手配してもらった車をマークⅡに取り替えに行き、再度藍屋駐車場に戻った。午後六時三〇分ころ、藍屋駐車場を出発した被告人らは、走行しながら假谷をマークⅡに移し替えるのに都合のよい場所を探し、世田谷区糀谷所在の芦花公園をその場所に決め、公園内の路上で、假谷をマークⅡに移し替えた。そして、H、Z、xが假谷を第二サティアンに運び、被告人ら他の者が証拠を残すことのないようにデリカとギャランを洗車することなどを決め、二手に分かれた。Hらは、午後一〇時過ぎころ、上九に到着し、假谷は第二サティアンに運び込まれた。

一方、被告人は、洗車場に行って車両を洗車し、さらに、食事をしたり、杉並道場に立ち寄るなどした後、三月一日午前零時半ころ、A5の運転する車で、Mと共に杉並を出発して上九に向かった。

7 假谷は、拉致された際に意識を喪失してから第二サティアンに運び込まれる間、一度も意識を回復することはなく、この間、Hは、假谷に対し、假谷の意識を喪失させた際の二月二八日午後四時三〇分ころにケタラール水溶液を假谷の足に三ないし四ミリリットル注射し、その後意識喪失状態を維持するために午後五時ころから午後一〇時ころまでの間にチオペンタールナトリウムを約三〇分ごとに点滴してチオペンタールナトリウム0.5グラム入りアンプル五、六本(2.5ないし三グラム)を使用した。

8 Oは、二月二八日午後一〇時から一〇時三〇分ころ、Hから乙川の指示でナルコ(麻酔薬を投与して睡眠状態にさせ潜在意識に働きかけて会話をする方法)をしてもらいたい人がいると、ナルコ実施の依頼を受けた。当時假谷は、第二サティアン一階の瞑想室に寝かされていた。そこで、H、xから、假谷を拉致してきた事情及びその様子、また、Hから假谷に対してそれまでに投与した薬品量、呼吸が一時停止したことなどの医療情報を聞かされ、同人に対してナルコを実施するよう依頼された。

假谷は運び込まれた当初にはまだ眠りが深く、ナルコの実施はできない状態であったが、O、Hは、三月一日午前三時ころから四時ころまでの間、チオペンタールナトリウムを假谷に対して投与して二回のナルコを実施した。しかし、假谷からA3の居場所を聞き出すことはできなかった。

一方、この間、第二サティアンに到着した被告人は、Mと共にO、Hらのところに行き、M、Hと共に假谷の所持品を検査するなどし、再び、東京へ向かった。

Oらは、その後、意識が回復しそうになった假谷に対し、さらにチオペンタールナトリウムを二回投与した。そして、同日午前九時ころ、Oは、假谷の管理をHに委ねてその場から離れた。Hは、假谷の様子を継続的に窺っていたが、呼吸が多少弱くなっており、舌根沈下を防止するために医療用器具であるエアウェイを装着し、同日午前一一時ころ、いったん假谷のいる瞑想室から離れ一五分程度して部屋に戻ったところ、既に假谷が死亡していた。

9 第二サティアンに到着してから死亡するまでの間に、O及びHは、假谷に対し、午前三時ころから四時ころまでの間に、ナルコ実施のために2.5パーセントのチオペンタールナトリウム水溶液約一三ないし一五ミリリットル(チオペンタールナトリウム約0.33ないし0.38グラム)、その後、午前九時ころまでの間に、二回にわたりチオペンタールナトリウム水溶液一ないし二ミリリットル(チオペンタールナトリウム約0.01ないし0.02グラム)を投与した。

なお、以上のほかに、Hは、捜査段階で、Oが午前九時ころ部屋を出て行った後に麻酔薬を投与しながら假谷の様子を継続的に見ていた旨述べている(甲D一五九)ものの、その実際の投与状況や投与量は明らかでない。

三  以上認定したところは、検察官が主張する事実関係と必ずしも一致しないので、この点について付言する。

1 まず、検察官は、假谷に対する二回のナルコの実施は、いずれも第二サティアンに到着した被告人がOらにナルコの実施を執拗に求めた後に行われたもので、また、被告人は、二回目のナルコにおいて、假谷に対し自ら質問をした旨主張する。

これらの点について、Oは、公判廷において、二回のナルコが実施されたのは(三月一日の)二時から四時の間であり、被告人とは二時から三時の間に会った(公判供述一三四四丁)、被告人に「もうナルコやらないでいいんですね。」と聞くと、被告人が「それでもいいからやってください。お願いします。」と言ったので、ナルコを実施することになり、Hと一回目のナルコを実施した、うまくいかなかったので、その結果を被告人に報告すると、「もう一度やってくれ。」と言われた、それで、「それならご自分でやってください。」と言うと、被告人は、假谷の所持品を見ながら手帳の名前を質問していた(公判供述一三五〇ないし一三五一丁)、二回のナルコを実施するのには三、四〇分くらいかかったと供述する。

一方、被告人は、Mと第二サティアンに行くと、Oから「これ以上聞いても、A3さんの居場所はわからない。このままナルコを続けても意味がないんじゃないか。」と言われ、自分では分からないし、尊師にお伺いするしかないんじゃないかと答えたように思う、その後、HがMに対し、假谷にA3さんの居場所を聞いて欲しいと言ったが、Mも尊師にお伺いしたいなどと答えた、また、HがMに假谷の所持品があるからチェックしてくれないかと頼んだので、それを手伝った、その後、尊師にお伺いをしようとMと東京に向けて出発した、自分はナルコの依頼をしたことも、その実施に立ち会ったこともない旨供述する(乙五、公判供述七三四二丁等)。

そこで、この点についてのO及び被告人の供述の信用性を比較検討すると、被告人と行動を共にしていたMは、公判廷及び甲D一五四において、被告人とずっと一緒に行動していた、第二サティアンに入る際、トイレに行ったので一、二分被告人に遅れて入ると、被告人、H、O(ただし、公判供述では、第二サティアンでOは見ていないとし、被告人とHだけを覚えているとする。)がいた、Hから、假谷の所持品を検査すること及び假谷に対して質問することを依頼され、被告人と所持品の検査をしたが、質問することは断った、五分くらいで所持品の検査を終え、さらに五分くらいで東京に向けて被告人と一緒に出発した、被告人が假谷のいる部屋に入るのは見ていない(公判供述二六二〇ないし二六二三丁等)と供述しており、その述べるところの具体的状況は被告人の供述と合致する。また、Hも、被告人が手帳を見ながら假谷に質問をした場面の記憶がない、被告人はナルコを実施する前に部屋を出ていったと思う旨、ナルコ実施への関与に関し、被告人のいうところと符合する供述をしている(甲D一五九)。Oの供述を前提としても、以上の者以外にこの場で被告人の言動や関与を目撃していた者はいないのであるから、そうすると、被告人が、ナルコ実施をOに強く依頼したことや被告人が直接質問したことを供述しているのは、結局Oのみである。また、被告人は、この時の被告人の心境について、自分の役目は假谷を第二サティアンまで連行することで、第一回の乙川の指示は終わったが、その目的からすれば、その後新たな乙川の指示があればそれに従うことになると考えていたと供述する(公判供述七三四一丁)ところ、A3の担当者として、その居場所を聞き出すための假谷拉致を乙川に相談し、その実行者として第一に指名されたMですら、ナルコに立ち会おうともせず、假谷に対する質問も断り、乙川の指示を仰ごうとしたのであり、被告人がこのような心境にあったことも不自然ではない。

これに対し、Oは、被告人が假谷の手帳を見て質問したと供述するが、所持品の検査をした後五分くらいでその場を離れた旨のMの供述と整合しない。もっとも、Mが自己の刑責軽減のために、自らの関与を否定する方向で述べる可能性は考えられないでもないが、それにしても、OないしHはMの直接あるいは積極的な関与を供述していないのであるから、そのような事情があるとも窺われない。また、Oは、被告人からA3がoに教団から退会したいと言ってきた旨の話を聞いて、「それじゃもうナルコやらないでいいんですね」と言った(公判供述一三四五丁)というのであるが、そもそもA3が出家を拒んで行方をくらまし、連絡がつかないでいたことが発端で本件拉致がなされた経緯に照らせば、假谷とA3の出家を巡る事情の説明を受けていたOの発言としては不自然である。現にoは本件の謀議に関する主要部分についての証言を拒絶した公判廷でも、本件後被告人にA3の居場所が分かったかを尋ねた旨述べているのである。また、Oは、假谷が運び込まれた当初からHらにナルコ実施を依頼され、假谷の様子を見ていたのであるから、改めて被告人に依頼されて初めてナルコを実施したというのも本件の推移にそぐわない。加えて、Oが、平成六年夏ころに被告人に指示されて他の者に対するナルコを実施し、その際には被告人も質問していたこと(公判供述一三三二ないし一三三三丁)、捜査段階でも記憶違いから假谷拉致の経緯を被告人から聞いた旨明らかな誤りを供述していたことなどをも併せると、Oが本件での具体的会話内容を記憶しているので間違いないと供述する(公判供述一三八七丁)点を考慮しても、検察官主張のような事実を認定することはできない(ただ、関係証拠に照らせば、被告人が、Hらと第二サティアンでナルコについて会話をしたのは一回目のナルコの後であったとみられ、被告人が二回目のナルコをOらに委ねたことが窺える。)。

2 さらに付言するに、検察官は、目黒公証人役場付近のワゴン車内で役割分担等を決めた際に、その中心が被告人であり、被告人の役割は全体の指揮であったと主張し、Mの供述にもこれに沿う内容の部分がある(甲D一五三)。しかしながら、この点、被告人は、主に自分とMが話し合った旨供述し(乙D三)、xも被告人、M、Hの三人が中心であった旨供述していること、Mが乙川から実行者として指名され、被告人へはMを手伝えとの指示であった経緯、本件当時被告人とMの教団内でのステージが同等で、元来仲の良い間柄であったことなどに鑑みれば、少なくとも被告人及びMが中心であったとみるのが相当であり、被告人のみが中心であったとまでは認められない。また、被告人が現場を離れている間に假谷の拉致行為が実行されていることなどを併せ鑑みれば、被告人の役割分担は、前記認定のとおりとするのが相当である。

四  右事実に照らし、被告人の逮捕監禁行為と假谷の死亡との関係について検討する。

1 検察官は、被告人は、共犯者と共謀の上、假谷を路上で逮捕し、全身麻酔薬を投与して第二サティアンまで連行し、同所に監禁して全身麻酔薬を投与させ、ナルコを実施させて、死に至らしめたのであるから、假谷の逮捕から死亡するに至るまでの逮捕監禁行為の全体に責任を負い、その中で、逮捕監禁あるいはナルコの手段として投与した麻酔薬によって假谷が死亡した以上、被告人の行為と假谷の死亡との間に因果関係があるのは明らかであると主張し(論告二八八ないし二八九頁)、弁護人は、假谷の死亡原因はいずれも専門の医師であるHの假谷の管理を引き継いだ後の重過失行為、あるいは、それとOの引継ぎにおける重過失行為の競合(弁論要旨一一四頁)であり、上九に連行するまでの逮捕監禁行為を共謀し、それを行った被告人の行為と假谷の死亡との間には因果関係が認められないと主張する。

2 まず、假谷の死亡原因について検討する。

(1) 前記認定の事実によれば、假谷に対する薬品の投与状況は二7ないし9のとおりである。

そして、ケタラールは、全身麻酔薬で、塩酸ケタミンの商品名であるが、そのうち筋肉内投与用のケタラール50は、一ミリリットル内に塩酸ケタミン五〇ミリグラムを含有し、麻酔の作用時間は二ないし三〇分とされる。また、チオペンタールナトリウムは、全身麻酔薬で、通常は静脈注射で使用され、その作用時間は一〇ないし一五分とされる。全身麻酔薬は、脳や中枢神経を麻酔し、それによって、呼吸、循環中枢が抑制され、呼吸回数が減少する。場合によっては呼吸停止し、極端な場合には心停止に至ることもある(公判供述一一四七ないし一一四九丁、甲D一九三)。

さらに、昭和大学医学部麻酔学教室助教授の増田豊(以下「増田」という。)は、公判廷において、身長一五五センチメートル、体重四七キログラムの假谷に対して、前記のような薬品投与がされた状況について、ケタラールの投与は通常の使用量であるが、チオペンタールナトリウムの使用量は通常最大で二グラムと考えられており、三グラムを超える使用量は過量であり、また、長時間の使用は通常されていない、適切な管理をしなければ危険な状態が起こりうる、点滴をしても麻酔を覚せいさせることは難しく、三月一日午前九時半ころまで呼吸や脈拍が安定していても麻酔状態は維持されていると考えられるので、その後も十分な管理が必要であり、管理状態次第では、呼吸抑制、舌根沈下による気道閉塞、心停止の危険などが考えられる、また、緊張感がある際の使用においては循環系への影響が強く出ると供述している(公判供述一一八五丁)。

(2) 検察官は、假谷は大量投与された全身麻酔薬の副作用である呼吸抑制、循環抑制等による心不全により死亡したと主張するのであるが、確かに、右増田の供述に照らすと、假谷に対しては、かなり過量の麻酔薬の投与がなされていたのであるから、それが死亡の直接的原因となった可能性が認められ、Hが、假谷の死亡は、麻酔薬の長時間投与により筋肉が弛緩したこと等から舌根沈下が生じて窒息したことが原因ではないかと供述する(甲D一六一)ように、假谷がチオペンタールナトリウムの過剰投与の副作用により呼吸抑制、舌根沈下による気道閉塞、心停止などを起こして死亡した可能性は否定できない。

(3) なお、検察官は、假谷の死亡原因を逮捕監禁のため、あるいはナルコの手段として投与した麻酔薬の副作用であるとして、ナルコにおいて投与された麻酔薬をも当然に含めて論じている。しかし、逮捕監禁致死罪において、逮捕監禁を行った者が被逮捕監禁者の死の責任を負うのは、その者の死が逮捕監禁ないしその手段に基づくことを要するから、その結果が、逮捕監禁それ自体ないし逮捕監禁行為そのものから生じている場合、逮捕監禁を維持継続するために行われた行為から生じている場合、あるいは被逮捕監禁者による逃走等のための行為から生じている場合に限られると解すべきである。そうすると、検察官が主張するようにナルコにおいて投与された麻酔薬の影響を当然の前提として因果関係を認めることは誤りといわなければならない。すなわち、本件逮捕監禁は、假谷からA3の居場所を聞き出すことを目的としたものであるところ、そのための逮捕監禁行為及びその維持存続の手段と、A3の居場所を聞き出すという目的達成のための手段が、いずれも麻酔薬を投与するという同一方法ではあったものの、ナルコ自体は逮捕監禁中に行われた別個の動機目的に基づく行為とみるのが相当であり、それが別の犯罪に該当するとしても、それによって生じた結果について逮捕監禁致死として問責されるものではないというべきである(ナルコに使用した麻酔薬の投与を同時に監禁のための手段と意識していたとする証拠はないし、当時の客観的状況や假谷の状態等からすると、そのようなものとみるに足る証拠もない。なお、いずれにせよ、この点は、被告人がナルコ実施に関わったか否かにより影響されるものではない。)。

しかし、前記認定の事実及び増田の供述等に照らせば、本件では、上九に至るまでの間に、既にケタラール及び使用限度とされる二グラムを超えるチオペンタールナトリウムが使用されており、それから六時間以上経過した後とはいえ、それまでの使用量と比較して少量ながらもさらにチオペンタールナトリウムが、逮捕監禁状態の継続のために少なくとも二回は投与されており、ナルコで投与した以外だけでも長時間にわたり過量の投与が行われていたと認められるから、右ナルコの分を除外してみてもなお、假谷の死亡が逮捕監禁行為に基づく麻酔薬の副作用によるものであった可能性は否定できない。

(4) 他方、増田の右供述に加え、Oにおいて、假谷が第二サティアンに運び込まれた際に、Hが使用した麻酔薬を早く体外に排出させる目的で点滴を行うなどの医療措置をとっており(公判供述一三四二丁等)、ナルコ実施前には假谷が覚せい状態にあり(公判供述一四一五丁)、午前九時ころにHに假谷の管理を引き継ぐ際にも相応の医療的な措置をとっており、その際には假谷の状態に異常は認められず、その生命に危険がある状況では全くなく、そのまま放っておけば必ず覚せいする状態であり(公判供述一四一七丁等)、その後Hから假谷が亡くなったと聞かされたときには納得がいかなかった(公判供述一四二一丁)と供述しているところ、右供述は、前記(三1)被告人の関与の有無と異なり、自らが専門とし日常取り扱っていた事柄について、自ら直接行った経緯、状況に関する供述であるところ、假谷に対してとった種々の医療的処置や同人の身体の状態、麻酔薬による影響等について具体的に述べるもので、その内容には医学的にも特段不自然、不合理というべき点はない上、前記被告人の関与の点と異なり、他の関係証拠とも矛盾しておらず、十分信用できるものとみられること、本件証拠上、教団が敢行した麻酔薬を使用した逮捕監禁行為あるいはナルコによって、その対象者が假谷のように不自然な急死を遂げた形跡はほかに見当たらないことなどに照らせば、少なくともOが假谷の管理を引き継ぐまでは、同人が麻酔薬の過量投与の副作用等のため、生命に危険があるような状況にはなかったとみられるのである。

そして、Oが、自ら用意していたエアウェイについて、その形が假谷に合っていなかった(公判供述一三四二丁)などと供述していること、Oから假谷の状態管理を引き継いだ後の状況については、Hが詳しい供述をしておらず、それを明らかにするだけの十分な証拠がないことなどに照らせば、引継ぎを受けた後にHが適切な医療管理を行っていれば死亡にまでは至らなかった可能性もまた否定できない。

(5) 以上によれば、假谷の死亡原因については、長時間にわたる過量の麻酔薬の投与あるいは引継ぎ後の不適切な管理状況、さらにはHによる何らかかの措置など、そのいずれに原因があったのか、さまざまな可能性が考えられ、明確に特定することはできないといわざるを得ない。

3 そこで、以上を前提に、逮捕監禁致死罪の成否について検討する。

(1)  假谷の直接的な死亡原因が長時間にわたる過量の麻酔薬の投与に起因するその副作用である場合には、被告人が、共犯者と共謀の上で、假谷を逮捕した上、麻酔薬を使用して上九まで監禁して連行し、さらに、O、場合によってはHが、ナルコ実施後にも意識を回復しそうになった假谷に麻酔薬を投与し監禁を継続した経緯があることからして、被告人らによる逮捕監禁行為と假谷の死亡の間には因果関係が認められ、被告人には逮捕監禁致死罪が成立する。この場合、引継ぎ後のHによる管理状況が適切でなかったために、そのような事態の発生を防止できなかったものであるとしても、右結論には影響しないというべきである。

また、假谷の直接的な死亡原因がHによる不適切な管理方法ないし何らかかの措置に起因していたとしても、長時間にわたる麻酔薬の過量投与の結果、呼吸中枢や循環中枢の機能が低下していたことがそれに重なって假谷の死亡という事態を招いた場合には、逮捕監禁の手段として用いられた麻酔薬投与が間接的とはいえ、同人の死亡に影響を及ぼしているのであるから、同様にみることができよう。

(2)  しかし、假谷の死亡原因がHによる何らかかの不適切な措置によるものであって、かつ、長時間にわたる過量の麻酔薬の投与に起因する假谷の呼吸抑制等の身体状態が、そのような結果発生に重要な要因として寄与していないような場合には、別論である。

まず、右Hの行為が假谷の監禁を継続させるための行為とは評価できない限り、そのようなHの行為によって生じた結果は、前記2(3)に説示したように、そもそも本件逮捕監禁に基づくものとはいえない。

そして、被告人は、芦花公園までの間に假谷の呼吸が一時停止したものの、Hの処置により危険はないと聞かされていたこと、第二サティアンにおいて、逮捕監禁の当初から関与しているHが付き添い、さらにOも立ち会っていること、O、Hはいずれも医師の国家試験を合格し、十分な経験を有する医師であること、それまでナルコは医師立会いの下で医学的立場から行われており、管理不十分などによって人が死亡した事例はなく、被告人もそのようなものと認識していたこと(公判供述四四六六丁)、この間の事情は、全身麻酔薬を使用して教団施設まで拉致してきた場合にも、概ね同様であること(公判供述六五六七丁、六五八三丁、六六四一丁、六八九〇丁)などの事情に照らすと、被告人が医師であるOやHが假谷に対して適切可能な医療管理を行うであろうと考えたことにはそれなりの理由があると認められる。この点については、假谷の死亡の二時間程度前まで、同人の状態を医学的な観点から管理していたOですら、前示のとおり假谷の死亡の事実を聞かされて納得がいかなったと供述し、そのような事態が予想できなかったことを率直に認めているのである。

そうすると、本件の経緯やHの資格等にも併せ鑑みれば、前記のような意味でのHによる不適切な行為があり、それによって假谷が死亡したとした場合に、そのことが被告人の関与した行為から生じたものとは直ちに認めることはできない。この場合、被告人の行為と假谷の死亡との間に因果関係を認めることはできない。

(3)  本件においては、関係全証拠によっても、假谷の死亡原因がいずれか特定ができない以上、右(2)の可能性があるといわざるを得ない。しかも、前記2(4)に説示したところからして、そのような可能性は単なる観念的なものに過ぎないと一概には否定できないのである。そうすると、結局、假谷の死亡という結果が被告人の逮捕監禁行為に基づくもので、それと假谷の死亡との間に因果関係があると認めることはできず、逮捕監禁致死罪の成立を認めるに足りる証拠はないというほかない。

五  以上検討したとおりであるから、その余の点について検討するまでもなく、被告人には逮捕監禁致死罪の成立を認めることはできず、逮捕監禁罪の限度でその成立を認めた次第である。

第四  判示第七の一の事実(以下「□□爆発事件」あるいは本項では単に「本件」ともいう。)について

一  弁護人は、被告人には、爆発物取締罰則にいう治安を妨げ又は人の身体財産を害せんとする目的はなく、また本件で使用された爆発物が、治安を妨げ又は人の身体財産を害するような威力を有するものであったとの認識もないから、爆発物取締罰則の適用はなく、器物損壊罪が成立するにとどまると主張する。

二  関係各証拠によれば、本件犯行の経緯、状況等について以下の事実が認められる(本項第四において単に月日のみを記載したものは平成七年である。)。なお、本件は判示第八の事実(以下「地下鉄サリン事件」ともいう。)と重なる点が多いが、本件に必要な限度に限定して説示することとする。

1 平成七年一月に山梨県上九一色村の山麓からサリンの残留物が検出されたとの記事が新聞に掲載されたことや、前記假谷事件に関してオウム真理教の関与が疑われる状況になり、その方向で警察が捜査をしていると意識されていたことなどから、三月中旬ころ、教団幹部の間では、近いうちに教団への大規模な強制捜査があるのではないかと懸念されていた。被告人は、三月一七日に正悟師となり、翌一八日午前一時ころから東京都杉並区高円寺所在の教団関連の飲食店「識華」で開かれた教団内部の会食に出席した後、乙川の使用する普通乗用自動車(以下「リムジン」という。)にD、K、A(以下「A」ともいう。)及びy(以下「y」ともいう。)と共に同乗して上九に向かったが、その車中で、教団に対する強制捜査が話題となった。

その際のリムジン内では、教団に強制捜査が入らないようにするためには地下鉄にサリンを撒けばいいのではないかなどの話があり、引き続いて、yが強制捜査が入ったら自分が演説するので、足をピストルで撃ってもらうなどすれば世間の同情が買えるのではないかと進言したことから、Aが、その当時教団に好意的な姿勢を示していた宗教学者の島田某(以下「島田」ともいう。)のところに爆弾を仕掛ければ、世間の同情が買えるのではないかと提案し、これに対して被告人がそれなら青山の東京総本部に仕掛けたらよいと提案したところ、乙川が、島田のところに爆弾を仕掛け、教団青山総本部道場に火炎瓶を投げたらいいのではないかなどと話した。

2 同日朝方、被告人は、第二サティアンにおいて、Dから、「私が指揮して科学技術省のメンバーで地下鉄にサリンを撒く。アーナンダ(被告人のこと)は、その前に島田教授のところに時限爆弾を仕掛け、東京総本部に火炎瓶を投げて欲しい。時限爆弾や火炎瓶の方の人選は任せる。時限爆弾などは明日の昼に取りにきて欲しい。」旨指示され、これを承諾した。

3 三月一九日午前零時ころ、被告人は、A4及びA6(以下「A6」ともいう。)と上九を出発して今川アジトに向かい、その車中において、本件犯行を手伝ってもらいたい旨告げ、それぞれの承諾を得た。そして、今川アジトについた後、被告人は、島田が住むと思われる東京都杉並区上井草所在のマンション「□□」(以下「□□」という。)を下見したり、A6や今川アジトにいたF2に犯行の準備を指示するなどした上、爆弾等を受け取るため、同日午前九時ころ、A4と上九へ出発した。

4 上九に到着後、被告人は、F3(以下「F3」ともいう。)が作った爆発物やyが作った犯行の際に撒く犯行声明が書かれたビラ等を受け取るなどした。

この時、初めにF3が持参してきた爆発物について、被告人、D、F3でそのタイマーが作動するかの実験をしたところ、タイマーから煙が出るなどして失敗に終わったため、F3が再度製作することになり、同人が再製作した物につき、タイマーの実験を行い成功したことを見定めた上で、被告人において、本件犯行に使用された右爆発物(以下「本件爆発物」という。)を受け取った。また、この間に、被告人は、乙川及びDと地下鉄サリン事件についての話をし、さらに、Dからそれに関する依頼を受けるなどしていた。

5 被告人は、同日夕方ころ今川アジトに戻り、A6及びA4に対し、犯行におけるそれぞれの役割を説明し、さらに、折から今川アジトにいたT及びXに対し、爆発を確認する役割を依頼した。爆発物を仕掛ける役割は、危険性に鑑み被告人が担当することにした。

そして、被告人は、午後七時二五分ころ、本件爆発物を□□一階玄関ドアの外側脇に置き、時限装置を作動させ、直ちにその場から離れ、間もなく本件爆弾を爆発させて本件犯行に及んだ。その結果、□□の厚さ五ミリメートルの玄関ガラスが大きく割れ、半磁器製の床タイルが約三〇平方メートルにわたって、表面部分がえぐられた状態になるなど破損又は汚損した。

三  治安を妨げ又は人の身体財産を害する目的について

1 爆発物取締罰則一条にいう「治安ヲ妨ゲ」とは、公共の秩序と安全を害することをいい、「人ノ身体財産ヲ害セントスル」とは、人の身体又は財産を害することをいう。

2 前記認定の事実によれば、本件犯行が敢行されるに至った動機は、教団に強制捜査が入ることを危惧し、強制捜査を免れんとして、騒ぎを起こして警察の捜査をかく乱し、あるいは、敵対勢力が教団に好意的な人物を狙ったかのようなテロ騒ぎを起こして、教団側に対する世間の同情を買うなどして警察の矛先を教団から変えさせようとしたものである。

被告人は、リムジン内で本件が発案された経緯を知っている上、Dから指示された時点においても、たとえ本件及び地下鉄サリン事件の目的を明確に聞かされていないとしても、強制捜査の矛先を変えるためであることなどの意図を十分に認識していたことが認められる(公判供述四四九三丁、乙C一)。そして、本件当時、警察から教団が疑いを持たれていた事件には、いわゆる松本サリン事件や前記假谷事件等があり、これらが世間の耳目を集めていたことからすれば、被告人は、警察の捜査をかく乱したり、世間の同情を買うなどしてその捜査の矛先を変えたりするためには、本件がそれらの事件と同様に世間の注目を浴び、社会を騒がせる程度のものとなる必要性があることを理解し得たはずであり、また、本件により、閑静な住宅街の一角にあるマンションで明らかに人為的なテロ行為の外形を呈した爆発が起きれば、周辺の住民を始めとして世間の不安が募り、公共の秩序と安全が害されることは、当然認識し得たはずである。

加えて、被告人は、後記のとおり、本件爆発物の危険性を認識していたと認められる。

以上よりすれば、被告人には爆発物取締罰則一条所定の目的があったと認められる。

3 これに対して、弁護人は、島田やマンションの住人に危害が及ぶことは、かえって世間の同情を買うためには逆効果であり、被告人にはそのような意図はなく、人の身体財産を害する目的はなかったと主張し、被告人も、人に危害を加える意思はなかったと供述する(公判供述四五一〇丁)。

しかし、島田については、下見した結果、□□に住んでいない模様であることを確かめており、敵対勢力による犯行を装う以上、現実の人的被害が生じたからといって意図した効果が損なわれるとは思われないし、被告人が、その供述するとおりに、島田やマンションの住人に危害を加えることを本来の目的としたものではないとしても、島田を傷つけては困るが、(あまり小規模で威力がなく)馬鹿にされたら意味がないと供述している(公判供述四五〇四丁)こと、午後七時過ぎの時間帯に、マンション出入口に爆発物を仕掛けていることなどに照らせば、被告人は、本件爆発物を□□に仕掛けることが、マンションの建物に損害を与えることはもとより、付近に人がいれば、その人の身体を傷害することの蓋然性をも認識しながら、それもやむを得ないとして、本件に及んだものと認められる。爆発物取締罰則一条所定の目的は右の程度の認識をもって足り、弁護人の主張を考慮しても、右認定は左右されない。

四  爆発物取締罰則の適用を受ける爆発物であることの認識について

1 弁護人は、被告人は、本件爆発物を受け取る際、製造者であるF3から、爆発物の種類や威力についての説明を受けておらず、単に爆弾という言葉から危険であるというイメージを持っていたにすぎず、治安を妨げ、又は人の身体もしくは財産を害するような威力のある爆発物であるとの認識はなかったと主張する。

2 爆発物取締罰則の適用を受ける爆発物とは、理化学上のいわゆる爆発現象を惹起しうるように薬品、資材が結合された物体であり、かつ、その爆発作用によって治安を妨げ、又は人の身体もしくは財産を害するに足るものとして社会通念上危害を感じせしむる程度の性能を有するものと解されるところ、関係証拠によれば、以下の事実が認められる。

(1) 本件爆発物の構造

本件爆発物は、直径約一〇センチメートル、高さ約二〇センチメートルのボイド管二本に黒色火薬を充てんし、爆竹、ニクロム線等からなる発火装置を入れてガラスクロス、接着剤で固めた本体にリード線でタイマー並びにタイマー及び発火用電源を接続した時限式の起爆装置である(公判供述四〇四五、四〇四七、四〇四八丁等、甲C一〇、一二、一四)。

使用された黒色火薬は、硝酸カリウム、硫黄及び灰を概ね七〇対一五対一五の比率で磨り潰して混ぜ合わせたもので(公判供述四〇三一、四〇四六丁)、爆発物本体には、各ボイド管に約一八センチメートルの高さまで詰められていた(公判供述四〇四七丁)。ほぼ同様の容器に満杯に詰めた黒色火薬の重さは約一一〇〇グラムである(公判供述四一四九丁)ことから、本件爆発物にはそれぞれ約九〇〇ないし一〇〇〇グラムの黒色火薬が詰められていたと認められる。

(2) 本件爆発物の威力

本件とほぼ同様の爆薬(産業用黒色粉末火薬)を使用し、本件類似の爆発物の周囲約一メートル弱の地点に厚さ約三ミリのベニヤ板を巡らせて行われた実験によれば、爆発物本体一本に三〇〇グラム以上の黒色火薬が詰められていた場合には、爆発時に火炎が生じ、ベニヤ板に貫通孔が発生し、火炎やベニヤ板の損傷は黒色火薬が多いほど大きく、爆発により、人の身体やその他の機材などを害する破壊力を有すると鑑定されている(甲C二一)。

右事実や本件犯行による現実の被害状況に照らせば、本件爆発物が、爆発物取締罰則にいうところの爆発物にあたることは明らかである。

3 一方、本件爆弾を製造したF3自身、実験をしていないのでどの程度の威力があるかは明確には分かっておらず(公判供述四〇八八丁)、被告人に渡した際に、その旨の発言をしていることも認められる。

しかし、被告人は、本件爆発物の大きさ、形状を見ており、受け取る際には、本件の意図からしてある程度の破壊力があると考えていたこと、爆発物を仕掛けるのは危険であるので、被告人自身がその役目をしようと考えたこと、受け取った爆発物にはそれなりの重さがあったこと(乙C一)、タイマーの実験が失敗したことから、タイマーが作動しなかった場合には、目の前で爆発して非常に危険であると思ったこと(公判供述四五〇五丁)、仕掛けた後に、A6から女性がひとり通って来ていると聞き、爆発するときにそういった人が通らなければいいと思った記憶があること(公判供述七三四八丁)などを供述しており、そのほか前記認定のような本件の経緯、態様にも鑑みれば、本件爆発物について、被告人自身が人の身体もしくは財産を害するに足るものとしての危害を感じていたと認められ、被告人には、爆発物取締罰則が適用されるような爆発物であることの認識があったと認められる。

五  以上より、判示第七の一の事実を認定した。

第五  判示第八の一ないし五の各事実(以下、本項では単に「本件」ともいう。)について

一  検察官は、被告人は、本件の現場指揮者であり、共謀共同正犯であると主張し、弁護人は、被告人は、共謀共同正犯ではなく幇助犯である旨主張し、それぞれその理由として、種々の点を指摘する。

そこで、被告人が、サリンの生成に関与していないことは証拠上明らかであり、争いがないから、まず、本件サリンの撒布に関し、関係証拠から認められる被告人及び共犯者らの行動について、概ね争いのない範囲で認定し、その上で、検察官及び弁護人の具体的な指摘を示し、順次それらについて検討していくことにする。

二  関係各証拠によれば、被告人及び共犯者らの行動について、概略、以下の事実が認められる(本項第五において単に月日のみを記載したものは平成七年である。)。

1 前記第四(□□爆発事件)で説示したとおり、平成七年三月一八日午前一時ころから東京都杉並区高円寺で開かれた教団内部の会食の後、乙川、D、K、A、y及び被告人は、午前二時ころから四時ころまでの間、上九に向かう乙川の専用車リムジンの中で、教団に対する強制捜査について話し合い、その中で、強制捜査を阻止するために地下鉄にサリンを撒いたらどうかとの話をした。

2 同日早朝、被告人は、第二サティアンにおいて、Dから、「私が指揮して科学技術省のメンバーで地下鉄にサリンを撒く。アーナンダ(被告人のこと)は、その前に島田教授のところに時限爆弾を仕掛け、東京総本部に火炎瓶を投げて欲しい。時限爆弾や火炎瓶の方の人選は任せる。時限爆弾などは明日の昼に取りに来て欲しい。」旨指示された。

一方、そのころ、Dは、T、S(以下「S」ともいう。)、V(以下「V」ともいう。)及びOを第六サティアン三階の自室に呼び集め、同人らに対し、教団の教義にしたがい、教団に対する警察の強制捜査を妨害するために、(主として)科学技術省のメンバーで東京都内の地下鉄にサリンを撒くことになったが、その実行をQ(以下「Q」ともいう。)を加えた五人で行うことを告げ、右四名は、Dの指示が乙川の命令であると認識し、それぞれ実行役を引き受けることを同意した。Dは、三月二〇日の朝の通勤時間帯に、霞が関周辺を狙って地下鉄にサリンを撒くことを伝えた。

3 被告人は、八王子の倉庫の鍵をQに渡すことを頼まれていたため、一度東京に出向いたが、上九に戻った後の同日午後三時過ぎころ、Tの部屋を訪れ、Tが地下鉄にサリンを撒くことを指示されたことを知り、サリンを撒く方法、実行役を運ぶ運転者、実行メンバーが使用する東京でのアジトのことなどを話し合い、次いで、Tと共にOのところに行き、地下鉄にサリンを撒く方法等についてさらに相談した。

そして、Dに相談しようということになり、被告人とTがDの部屋に行くと、Dに依頼された買物を済ませて戻って来たS及びVが既に同室に来ており、Dと三人で地下鉄の路線図を見て、サリンを撒布する地下鉄の路線や乗降駅などについて話し合っていた。これを見た被告人は、三人が使用していた地図より自分が持っていたものの方が役に立つと考え、地下鉄に関する二冊の本をDらに提供した。その場で、Dが地下鉄の情報等について被告人に質問し、被告人がそれに答えるなどしながら話が進められ、サリンを撒布する路線や各路線の乗降駅、乗車車両、犯行は午前八時一斉に行うことなどが決められた。その際、運転者についての話もされ、R、X、W(以下「W」ともいう。)の名前があがった。撒布の方法についてはDが考えておくことになった。

約一〇分程度で、Dの部屋を出た被告人とTは、ファミリーレストラン「ココス」に食事に出かけ、それから、被告人は、イニシエーションの立会をしたり、前記□□爆発事件等のためA6と話をしたりし、同事件の実行に向けて、三月一九日午前零時ころ今川アジトへ出発した。

4 Dは、同月一八日夜、第六サティアンの自室において、Qに対し、T、O、S、Vと共に地下鉄にサリンを撒いて欲しいとの指示をし、Qはこれを了承した。

5 三月一九日午前八時ないし九時ころ、T、S、V、Qは、運転者役としてあげられていたR、X、Wと共に上九を出発し、今川アジトに向かった。

そして、同日午前中、今川アジトにおいて、T、S、V及びQの四名は、サリン撒布について、各実行役が担当する路線の分担や乗車時間等を決め、その後、犯行時に使用する衣類等の買物や地下鉄の駅の下見などをした。

被告人は、同日未明に今川アジトに到着し、□□爆発事件のための下見をしたり、指示を出したりしていたが、同事件に使用する爆弾等をDから受け取るために同日午前九時ころ今川アジトを出発し、正午前に上九に戻った。

6 上九でDと会った被告人は、Dに実行役を送迎する車の運転者について尋ね、Dが乙川の許可を受けるつもりである旨答えたことなどから、Dと共に第六サティアンの乙川の部屋に行った。そして、乙川から「お前ら、やる気がないみたいだから、今回はやめるか。」「Uどうだ。」などと聞かれた被告人は、尊師の指示に従う旨答えた。また、Dが乙川に運転者について尋ねた結果、乙川において、運転者五人についてはR、a(以下「a」ともいう。)、Z、b(以下「b」ともいう。)、Gをあげ、実行役との組合せを、TとR、Sとa、QとZ、Vとb、OとGとする旨を指示した。

乙川の部屋を出た後、被告人は、Dから、下見に行っている東京のメンバーとZに連絡をとること、実行役を運ぶ五台の東京ナンバーの車を用意することを指示され、これを了承した。さらに、被告人は、サリン撒布のメンバーの集合場所を用意するように指示されたため、諜報省が使用していた東京都渋谷区宇田川町<番地略>××四〇九号室(以下「渋谷アジト」という。)が使用可能であると話した。その結果、渋谷アジトが集合場所に決まった。

その後、Dは、同日昼ころ、bらに対し、同日夜に渋谷アジトに行くように指示した。

7 被告人は、上九で爆弾を受け取るなどし、同日午後七時ころ、A6らと共に今川アジトに立ち寄り、A6らを車に待機させて中に入り、Tに対して、乙川が指示した運転者五人を教え、Tと組む運転者がRである旨を告げ、さらに、今川アジトにいた本件メンバーに対してZの案内で渋谷アジトに移るように指示した。

被告人は、約一〇分くらいで今川アジトを出て、判示第七の一及び二の犯行(□□爆発事件等)を実行した。

8 同日午後九時過ぎころ、渋谷アジトに、実行役の五名、運転者役の五名及び被告人が集合した。被告人は、実行役及び運転者役の一〇名に乙川が指示した実行役と運転者役の組合せを告げ、さらに犯行手順等の話をし、Oには担当路線等の説明をした。また、緊急事態に備えて、実行役らに被告人の携帯電話の番号を教えた。その後、被告人は、渋谷アジトを外出し、この段階で未調達であった車の調達の手配をするなどしてアジトに戻り、Zらに対しては、手配済みの車を取りに行くよう指示した。そして、被告人は、三月二〇日午前零時ころ、□□爆発事件等の結果を乙川に報告するために、渋谷アジトから上九へ向かった。その際、被告人はTの依頼でサリンが未だ届いてないことについても、様子を見てくることを承諾していた。

9 同日午前一時ころ、Dは、実行役五名に対して、電話で、至急上九一色村の第七サティアンに戻るよう命じた。

同日午前二時過ぎころ、被告人が、乙川の部屋で□□爆発事件等の報告をしている際、Kが、Hと共にJの指導下で生成した撒布用のサリン一一袋を乙川の部屋に持参した。

その後、Dは、被告人にサリンの入ったナイロン袋を突き破るのに使用するビニール傘の購入を指示し、被告人は、その指示に従って傘を購入し、F3の傘の先端金具部分を尖らせる作業を手伝った。

さらに、Dは、同日午前三時ころ、第七サティアンに到着した実行役に対し、サリン撒布の方法を伝え、同人らに犯行の予行演習をさせた。その模様を被告人も見ていた。

10 同日午前五時過ぎころ、実行役らは渋谷アジトに戻り、実行の準備を進め、本件犯行に及んだ。

一方、被告人は、実行役らとは別に東京の今川アジトに戻り、同日早くとも午前六時半過ぎに、渋谷アジトに行ったが、既に実行役らが出かけた後であった。

犯行後、被告人は、本件犯行を終えて渋谷アジトに戻ってきたT、G、Rと実行役が使用した傘や衣類等を処分した。

三  検察官及び弁護人の主張

1 検察官の主張

検察官は、リムジン内において、乙川、D、K及び被告人との間で本件の共謀が成立したと主張し、それを前提に、被告人は、教団の教義の実践のために自らの意思と判断で犯行に積極的に加担し、首謀者乙川及び総指揮者Dが本件の骨格を決めたリムジン内重要謀議に参加し、運転者の選抜及びその実行役との組合せ等の重要事項の決定に深く関与している上、本件犯行の現場指揮者として、上九において総指揮をとる乙川及びDと東京都内で本件犯行の実行にあたる者らとの間に入って、実行役らを指揮して犯行を推進し、その遂行に向けて重要な役割を果たしているのであるから、共謀共同正犯が成立する旨主張し(「共謀」共同正犯とする点につき、平成八年三月二一日付け釈明書)、被告人の具体的関与行為について、右のほかに主要な点として、

① 三月一八日夕方ころ、Dの部屋において、実行役を送迎する車の運転者役の必要性を訴え、犯行メンバーが集結するアジトの提供を提案し、地下鉄に関する情報を提供するなどして、具体的実行方法に関する謀議を主導したこと、

② 今川アジト、渋谷アジトを提供し、三月一九日夕方、Tに今川アジトへの移動を指示し、Oには渋谷アジトへの合流を指示したこと、

③ 三月一九日の午後九時ころ、渋谷アジトにおいて、実行役と運転者の組合せを伝え、犯行の実行方法に関する詰めの謀議を主導し、犯行メンバーに犯行の細部にわたって最終指示を与えたこと、

④ 実行役に対して不測の事態に備えるための逃走資金を渡し、被告人の携帯電話の番号を教えるなどし、渋谷アジトで待機して緊急連絡に即応する態勢をとっていたこと、

⑤ 犯行に使用する車五台を調達したこと、

⑥ 犯行に使用した衣類や傘の処分を計画し、Tらを指揮して処分させたこと

などを指摘する。

2 弁護人の主張

これに対して、弁護人は、被告人が本件について共犯関係に入ったのは、リムジン内ではなく、三月一九日午後一時過ぎころに被告人がDから指示を受けた時点(前記二の6)であり(平成一一年一一月八日付け弁護人意見書)、被告人は、本件の実行メンバーではなく、現場指揮者でもない、被告人が本件について主体的に担った行為は、三月一八日午後にDの部屋で話合いが行なわれた際に、地下鉄の地図を示すなどしてDの質問に積極的に答えたこと(前記二の3)、三月一九日に渋谷アジトにおいて、実行役と運転者の組合せを伝えるなどして、その場の会議の中心となったこと(前記二の8)、本件実行役を送迎する自動車五台の調達をしたことに過ぎず、それ以外に検察官が主張するような被告人の関与はない、あるいは、消極的な関与であるとして、被告人は現場指揮者としての役割を担ったことも、それに見合う関与もなく、科学技術省のワークを手伝っただけのものであり、被告人は共同正犯ではなく幇助犯にとどまると主張する。

四  そこで、右各主張に照らし、前記二の経過に沿って、個々の被告人の関与の有無、内容について順次検討する。

1 リムジン内の会話等について

(1) 関係証拠から、リムジン内には、被告人、乙川、D、A、y、Kの六名が乗車していたことが認められる。しかし、Dは平成七年四月二四日に死亡し、乙川、K及びAは、公判廷において証言を拒絶し、yは、公判廷において、コスモクリーナーの音がうるさくよく聞こえなかったなどと供述し(公判供述六〇三六丁)、さらに、Kの捜査段階の供述も、乙川からサリンを造れるかと尋ねられたことは述べるものの、その前の話については、乙川、Dと被告人の三人でひそひそと話をしていたのでよく聞いていないなどというものであって(甲A一二〇四七等)、その際の具体的な会話に関する証拠は被告人の供述に依るしかない。

(2) そこで、被告人の供述によれば、リムジン内での本件に関する会話の状況は概ね以下のとおりである。

リムジンに乗る前の会食の席で、乙川が、「Xデイ(教団に対する強制捜査のこと)が来るみたいだ。」と発言し、教団に対する強制捜査が話題になっていたところ、リムジン内では、Aから、いつになったら四つになって戦えるのか、また、Dから、(三月一五日に、被告人らが地下鉄霞ケ関駅構内にアタッシェケース入りのボツリヌストキシンを撒布しようとしたものの、失敗に終わった)アタッシェケース事件が成功していれば強制捜査がなかったのかなどの話が出て、強制捜査の話が始まった。その際、乙川から、強制捜査を妨害するための方策について何かないかと聞かれた被告人は、「T(ボツリヌストキシン)ではなく、妖術(サリンのこと)だったら強制捜査はなかったということでしょうか。」と答えたところ、Dが「地下鉄にサリンを撒けばいいんじゃないか。」と言い出し、さらに、乙川も「それはパニックになるかも知れないなあ。」と答えて、乙川とDの間で、サリンについての話が続けられた。

そして、被告人は、乙川から、「この方法でいけるか。」と地下鉄にサリンを撒布する方策について尋ねられたため、判断できないと述べ、さらに、牽制の意味で硫酸を撒くことを示唆した。しかし、乙川は、「サリンじゃないとだめだ。アーナンダ(被告人のこと)、お前はもういい。」と言って、Dに対して「マンジュシュリー(Dのこと)、お前が総指揮でやれ。」と言った。これを受けて、Dは、新たに正悟師となる四人を使いましょうかとT、S、Q、Vの四人の名前をあげたところ、乙川は、Oも加えることを提案し、Kにサリンの生成が可能かを尋ねた。Kは条件が整えば造れるのではないでしょうかと答えた。また、乙川は、サリンを撒いたら強制捜査がどうなるかの質問をしたので、それぞれが意見を述べ、被告人は、少しは遅れるかもしれないが、来ると決まっているなら来るのではないでしょうかと答えた。

その後、yが、「強制捜査が入ったら自分が演説をするので、ピストルで自分の足を撃ってもらえば、世間の同情が買えるのではないか。」と言い出したことなどから、被告人は、「それだったら、青山総本部道場に爆弾を仕掛けたらいいんじゃないでしょうか。」と言い、その結果、乙川は、「島田さんのところに爆弾を仕掛けて、青山総本部道場に火炎瓶を投げたらいいのではないか。」と言った。

そして、最終的には、乙川が「瞑想室で考えてみる。」と言った。

(3) 被告人は、乙A一七を始めとして、当公判廷及び証人として出廷したオウム真理教関係被告人の公判において、概ね以上のような趣旨の供述をしているが、その内容は、供述の時期、立場、状況等を異にしながら大筋において一貫している(一部公判段階で変遷したところについては、それなりの合理的な理由が示されている。)上、それ自体として極めて具体性、迫真性に富み、特に不自然、不合理な点もなく、関係証拠から明らかである当時のオウム真理教を巡る客観的状況や経緯にもよく符合し、それ自体として高い信用性を有する。のみならず、その一部はリムジンに同乗したとされるKの検察官調書、yの公判供述等にも裏付けられていること、被告人の供述内容を前提とするとき、D総指揮の下に、突如としてオウム真理教関係者がサリン生成から実際の実行役五名による地下鉄内での撒布に至る一連の流れを企図し、遂行、実現した客観的経緯、状況をまことによく理解できること、被告人がこのような供述をするに至った経緯が自発的に真実を明らかにしようとするものであること、被告人自身や他のオウム真理教関係者の公判供述からも、被告人が深く帰依していた乙川の眼前で、事実を否定する同人に不利益となるような内容の供述をするには大変な覚悟がいることが認められ、ましてやことさら嘘をついてまで同人を陥れるような供述をするとは到底考えられないところ、同人の法廷においても、いったん供述を開始するや、その弁護人による極めて詳細執拗な反対尋問、さらに乙川本人による不穏当な妨害行為にもかかわらず、その主要部分の供述内容に揺らぎがみられず、当公判廷の供述等と実質的に異なることもないこと等の諸事情に照らして、十分信用できる。

そして、このような被告人供述により認められる右の事実によれば、被告人は、捜査を妨害するためにサリンを撒布することを初めに言い出し、サリン撒布の効果などにつき乙川の質問に答えるなどして、サリン撒布の契機となる言動をとっていたことが認められ、この段階で既に、その後実際にサリン撒布を担当することになる実行者五名の名前があがっていたのである。

しかし、リムジン内においては、最終的には乙川が瞑想して考えるとして、サリン撒布の実行について留保していること、被告人は、リムジン内で、乙川から本件の役割について指示された経緯はない上、むしろ「お前はもういい。」と言われていること、それを聞いて、被告人が犯行メンバーから外されたと認識したこと、現に、被告人は、その日の早朝、乙川の部屋に行っているものの、A5らの指紋除去の許可を受けるなどしただけで、乙川から本件や□□爆発事件等について何も言われていないこと(公判供述四四九三丁、乙A一〇)、Dも、実行役四名に対して指示した際に、被告人の関与を予定しているような発言をしておらず、実行役五名の名をあげただけであり、被告人自身に対しても、本件犯行を科学技術省のメンバーでやると告げ、被告人には□□爆発事件等を実行するように指示していること、被告人は、リムジン車中での話の後に、乙川と少なくともDとの間で、本件実行についての相談があったと考えていること(公判供述四四九三丁)、リムジン内でサリン生成の可否を問われて、造ることができる旨答えていたKも、その場の話はその程度で終わったと認識しており、その後改めて乙川からサリンを造れとの命令が下され、Kはそれからサリン生成を始めていること(甲A一二〇四七等)などの事情が認められる。

そうすると、リムジン内においては、未だ本件の実行が確定的なものとして決定されたというまでには至っていない上、被告人に対して、本件の現場指揮をとることや、本件の補助をすることなどの指示が抽象的な形であっても何ら示されておらず、被告人自身この段階では本件を乙川やDらと共同して実行しようとする意思を形成していなかったと認められ、被告人と乙川らとの間に共謀が成立したとみるには無理がある。検察官のこの点の主張は採用できない。

(4) 以上よりすれば、リムジン内において、被告人が、乙川、Dらとの間で本件犯行の骨格を決める重要な謀議を行ったとまではいえない。

しかし、乙川が、これより先、既に、サリンの生成を検討させていたりし、被告人に対しても、強制捜査に備えてサリンのことを調査するように命じていた経緯があったとしても、リムジン車中で強制捜査の話と絡めて、具体的にサリンの使用を示唆した被告人の言動が、本件の契機となり、乙川の決定に影響を与えたことは否定できず、被告人が、本件犯行に至る経緯において、その当初の段階から、意図的か否かはともかくとして、深く関わっていたことは明らかである。

2 三月一八日早朝Dが実行役四名に指示した内容について

この際の内容について、検察官は特に言及していないが、付言すると、この場に同席したSは、公判廷において、この時にDが被告人も犯行に加わるとして、各実行役の役割分担を示した際、Tは被告人との連絡役である旨説明したと供述しており(公判供述四四五丁以下)、その内容に照らせば、右三月一八日早朝の時点までに、何らかの形で乙川ないしDと被告人間で、被告人が本件に関与する旨の謀議が成立したもののようにみられるし、実際Sは、本件において、車の調達、アジトの提供、Dからの指示の伝達、そのほかの指示等について、被告人の関与がなければ、これほど手際良く実行できなかったかもしれない旨を供述する(公判供述五二三丁)。

しかし、同じ機会に立ち会ったT、Vは右のようなDの説明を聞いたとは述べておらず、被告人の果たした役割を他の者よりも重要視して供述するOの供述にもそのような内容はみられない上、Sによれば被告人との連絡役となったはずのTにおいても、同人の方から被告人と連絡をとろうとするなどした形跡もなく(かえって、Tは途中まで、被告人が本件に関わりをもつのかどうかについてすら、承知していないことを前提とする態度を示している。)、ほかにそのことを窺わせる証拠もないことからすると、この段階で既に被告人が本件で一定の役割を与えられ、その実行に参加していたとまでは認められない。むしろ、Sにとっては、被告人に対する日頃の印象などからして、被告人がこの段階から既に一定の役割を与えられていたと誤解するような状況にあったものと窺われ、それが本件における被告人の役割についてのSの供述内容に影響しているものとみられる。

3 三月一八日午後にTと話した内容について

(1) 検察官は、被告人がTの部屋に行ったのは、被告人が本件犯行を確実に実行するためには自分の積極的な関与が必要であると考えたからであり、被告人は、Tに対して、自分から、犯行メンバーが集結するアジトを自分が用意する必要性があること、実行役を送迎する運転者五名が必要であり、そのための車五台は自分しか調達できないことなどを説明するとともに、運転者としてX、W、Rの名前をあげ、さらにサリン撒布の方法も話したと主張する。

これに対して、被告人は、Tの部屋に行ったのは、自分が□□爆発事件等を行うにあたって、本件についても知っておきたかったことや本件がどのように行なわれるのか関心や興味があったことから、実行役五名の中で仲の良かったTのところに行って、食事でもしながら聞いてみようと思ったからである(公判供述四四九四丁)、「Dが五人のメンバーを使って本件をやると言っても、もろもろの手配のことというのが必要になってくるだろうと、僕に回ってくる可能性もあるんじゃないかと思っていたんじゃないかと思う。どうせ回ってくるんだろうから、そのときにやらないといけないし、それを聞こうとしたのではないかと思う」旨供述し(公判供述七三六四丁)、運転者について話をしたが、自分からアジトを提供する用意があることや車の調達の話、さらに運転者の名前をあげたことはなく(公判供述四四九五丁)、Tが悩んでいて、被告人に話を持ちかけて運転者の名前をあげた、運転者については、Wとは仕事をしたことがないので良く知らないし、Rは乙川の運転者であるので、自分で仕事を命じることはできないので、自分から名前をあげることはないはずである、とその理由も含めて供述している(公判供述六八三六丁)。

(2) 被告人の右供述をみるに、被告人が供述するTの部屋に行った理由については、被告人が、リムジン内で、サリンを撒く話題に加わりながら、お前はもういいと言われ、その後、Dから本件を科学技術省のメンバーでやると言われた経緯に照らすと、自然な感情として理解できるものである。そして、被告人が、Tの部屋に行く際に、既に自己の積極的な関与が必要であると考えていたのであれば、むしろ、Tのところではなく、Dに自分がするべきことを直接進言するほうが効果的であり、実際にもそれが可能な状況にあったことを考えると、この点の被告人の供述は信用性が高い。

また、Tが、自室に入ってきた際の被告人の印象について、いつもと異なり遠慮がちに言い訳するような感じであり、違和感を感じた旨供述しているところ(公判調書三二二一丁)、その供述は、特異な事態について具体的に述べるものであって、次に検討するような被告人との間の細かなやり取りと異なり、大まかな印象という事柄の性質上も十分信用できるものであるが、そうすると、Tが述べるこのときの被告人の言動は、前示のとおり、サリンに関わる事項はDが総指揮をとることとされ、乙川から被告人はもういいとされていたという、被告人が述べる当時の客観的状況に極めてよく符合する自然なものであって、被告人の供述の信用性は、この点からも十分裏付けられるということができる。

これに対し、Tは、検察官の主張に沿った供述をしているが、この点のTの供述は、同人の逮捕が他の犯行メンバーより遅れて、平成八年一二月三日と犯行後約一年半以上経過していたこと(甲A一二〇五四)、運転者としてあげられた三名はいずれも被告人よりTの方がはるかに親しく、よく知っている間柄であること、Tが教団でサリンを生成していることを知っている右三名に頼もうと考えていると述べたとする被告人の供述内容(乙A一〇)は、運転者選択の理由として合理的で自然であること、Tにとっては自己の関与にも密接に関わる内容であることなどに照らすと、それだけでは直ちに信用できない点がある。また、被告人がTの部屋に行った理由などからすれば、Tに相談されれば、被告人が躊躇なくそれに応じたであろうことは十分窺え、Tにとっては、被告人が言い出したとの印象が残っているとしても不自然ではない。

(3) そうだとすれば、被告人は、この段階では、加担の可能性を認識していたものの、まだ、確定的に本件に加担していたとまではみられず、Tの部屋で運転者等について、被告人が自主的に言い出したとは認められない。検察官の主張するような発言が被告人の方からあったと認めるに足りる証拠はない。

しかし、被告人は、本件に関して重大な関心をよせるとともに、自ら本件についての情報を得ようとし、また本件が滞りなく遂行されるために、Tの相談に十分な対応をしていたことがみてとれる。

4 三月一八日午後Oに指示したことについて

(1) 検察官は、被告人がTと話し合った後、同人と共にOと会った際に、Oに対して、携帯電話の番号を教えた上で、三月一九日午後九時ころ渋谷まで来て、連絡を入れるように指示したと主張する。

(2) しかしながら、渋谷アジトが使用されることに決まったのは、三月一九日の午後にDが、被告人に使用できるところはないかと相談したことが契機になっているのであり、この段階ではまだ決まっていない(公判供述四四九六丁)ことからすれば、被告人が、偶然にOと出会ったこの機会に、渋谷アジトに実行役らが集合することを前提として、Oの述べるような内容の指示をしたというのは不合理である。Tも、被告人より先にその場を離れたとはいえ、この間の事情については、特段述べていないし、逆に上九を出るまで渋谷アジトの話は出ていないとしている(公判調書三四〇〇丁)。むしろ、このころの時点では、被告人が、Tに今川アジトについて話をしている事情が窺えることからすると、話したとすればOに対しても今川アジトをあげる方が自然である。この点、Oも、当初は公判廷において、はっきりした記憶はないが、被告人に指示されたと思う旨供述していた(公判供述一四二丁以下、二二六丁以下)ものの、後に、合理的な理由を示した上で、三月一九日に、Dが自分の部屋の前にメモをしたということが確実だと思うと供述しており(公判供述四七六三丁)、そのほか関係証拠に照らすと、被告人が、Oに指示したことはないと認められる。

(3) しかし、被告人が、TとOのところに行って、サリン撒布の具体的な方法について話し合っていることは、自分自身でお節介をやいたという形であると供述していること(公判供述四四九五丁)からしても、被告人自身の意思で、T、ひいては本件の実行に協力しようとしていたことの現れであると認められる。

5 三月一八日夕方のDの部屋における関与について

(1) この際に、被告人が地下鉄の本をDらに提供し、積極的にDの質問に答えたことに争いはない。

検察官は、さらに、被告人が、Dらに対し、東京で犯行メンバーが集結するアジトを用意することや運転者役の必要性を告げたと主張する。

(2) しかし、被告人は、そのようなことを言った記憶はないと供述しているところ、その場に同席していたS、Vはその点を供述しておらず、被告人の供述を裏付けており、この際に、アジトの用意をすると告げたとは認められない。なお、検察官の主張に沿うTの供述はある(公判供述三二三九丁)が、同人は同時に、この際に各自の担当路線も決められたとも供述し(公判供述三二三七丁以下)、それを後に訂正する(公判供述五七四一丁)などしており、記憶に混乱がみられ、必ずしも信用できない。

また、運転者の必要性については、Rが一八日中にTから車の運転をしてもらう旨指示されており(公判供述二七〇丁)、翌一九日朝には、Dの指示で、R、X、Wの三名が実行役と共に、東京へ出かけていることなどからして、この段階で、運転手の話があり、かつ右三名の名前があがったことは確実なところとみられるところ、Tは、被告人が言ったのか、被告人に促されて自分が言ったのか出だしは覚えていないが、被告人が運転者役の必要性を話したと検察官の主張に沿った供述をしている(公判供述三二四〇丁)が、前記のとおりそもそもTからの話であったとみられること、T自身も捜査段階において自分がDに言った旨供述していること(甲A一一九九五)などに照らすと、必ずしも検察官主張のとおりの経緯であったとまでは認め難い。

(3) そこで、この際の状況を検討するに、被告人は、それまで、仲の良かったTとの関係において、本件の情報を得ようとし、他面で悩んでいたTに協力するという意図が強かったと認められる。そして、被告人とTがDの部屋に行ったのは、Dから本件犯行の話合いをするために召集されたからではなく、被告人とTの話の流れの中から、そのようになったもので、Dの部屋にSとVがいたのも、被告人らにとっては偶然の事情であった。

しかし、被告人は、Dの部屋に行った際には、指揮者であるDの下に実行役のS及びVが集まり、サリン撒布の具体的方法について話し合っていることを認識したのであり、さらに、そこへ実行役であるTと共に加わり、それまでTとの間では話題になっていなかった地下鉄の乗降駅等について話合いが行なわれているにもかかわらず、自己の判断で、積極的に、本件犯行の実施により有効な情報を与えようと参加し、資料を提供したり、Dの質問に答えて説明するなどの行為に及び、実質的に具体的手順を検討し、Dにおいて決定するやり取りを、主としてDと被告人の二人で行っている。しかも、Dを含めた犯行メンバーが四名もいる中で、被告人が指揮者であるDの質問に直接に答えている状況や、そのような被告人の振る舞いに対して、Dはもとより、他のいずれのメンバーも、何ら違和感を覚えていない。そうすると、SやVが本件犯行メンバーに被告人が含まれていると認識し、また、被告人が本件についてどの程度承知しており、あるいは関与しているのか明確に判断しかねていたTにとっても、Dが被告人を排除することなく、むしろ被告人に積極的に質問するなどしているのを見れば、被告人も犯行メンバーの一人ではないかと認識し得る状況であったと認められる。また、被告人も、それを十分理解し、Tと二人で話をするのとは状況が異なってきていることも認識し得る状況にあったと思われる。

右状況の下での被告人及びDらの言動、話合いの内容等に照らせば、この段階に至り、被告人は、本件犯行における実質的な謀議に加わったものとして、被告人とDらとの間で共謀が成立したということができる。実行役五名の中で、これ以降にDから指示を受けたQだけが、Dの指示中で他の実行役四名や「被告人」と相談して行動しろと言われた旨供述(公判供述五六五丁)していることも肯けるところである。

そうすると、被告人は、本件における役割を具体的に指示されたことはなく、本来予定されていた犯行メンバーではなかったものの、その後に自らがとった行動から、本件に加担する状況を作り出す結果を招いたものというべきである。

6 Tと「ココス」で食事をした際のTに対する指示について

(1) 検察官は、この際に、被告人が、犯行メンバーをいったん今川アジトに集結させようと考え、Tに対して、準備ができ次第、Oを除く実行役と運転者役として名前のあがった三名を今川アジトに連れて行くように指示したと主張する。

(2) 確かに、Tは右に沿った供述をしている(公判供述三二四三丁)。

しかし、一方で、Tは、東京に出て下見や買物をする指示はDから出ていると供述しており(公判供述五七六九丁)、また、関係証拠によれば、この段階では、まだ本件の実行方法も決まっておらず、実行役らの今後の行動予定も被告人は知らないのであるから、被告人が、Dの指示もなく右のような趣旨の明確な指示をTにできるのかは疑問である。むしろ、「場合によっては今川アジトを使ってもいいよ。」と言ったとの被告人の供述(公判供述四五〇〇丁。なお、乙A一〇では、Tの部屋での話とする。)の方が、関係証拠に矛盾しないと思われる。

この点のTの供述は信用できず、検察官が主張するような、被告人の意図及び指示があったとは認められない。しかし、ここでも、被告人は、本件犯行の実行に関わる事柄について、協力を拒むことなく、むしろ、積極的に協力する姿勢を示しているとみられるのである。

7 三月一九日夜の渋谷アジトでの関与について

(1) 渋谷アジトにおいて、被告人が、会議の中心となって、乙川からの実行役と運転者役の組合せを伝えたり、Oに路線や乗降駅を教えたりし、被告人の携帯電話の番号をも教えたこと自体については争いがないが、検察官は、さらに、被告人が、犯行当日の各自の行動について具体的かつ詳細な指示を徹底し、また、実行役に対して、緊急用の逃走資金として現金を配った事実を主張する。

(2) この点、被告人は、実行役の担当路線は知らなかったし、実行役と運転者役の組合せを伝えた後は、それぞれがペアの人と打ち合わせを始めたのであり、Oには担当路線等をTから聞いて伝えたが、犯行時刻や担当路線について全員に指示したことはなく、最終確認までを行ったことはない旨供述する(公判供述四五一三丁等)。

各実行役の担当路線については、Oを除く実行役四名が当日今川アジトで決定した経緯が認められるから、被告人の述べるところは不自然なものではない。そして、この場に同席した者の被告人の言動についての供述は、詳細において微妙な食い違いがあるものの、その内容は、概ね被告人が、実行役と運転者役の組合せを伝え、その後、犯行時刻、乗降駅など具体的な実行手順を説明したというものである。すなわち、Tは、従前は本件犯行の目的、犯行時刻、出発時刻、下見に行くようにとの指示などのほかに、各自の担当路線、乗降駅、車両の乗車位置などについても被告人から話があったと供述していたが、後者については記憶違いであった可能性も出てきたと供述し(公判供述三二六七丁以下、五七三八丁、五七六八丁)、Vは、被告人が、組合せや路線、乗降駅、実行時刻、乗車する車両位置等、犯行計画について詳しく説明し、最終確認を行った(甲A一一九〇一)、Rは、被告人から、組合せ、降車駅、担当路線、乗車車両、午前八時一〇分くらいに霞が関に電車が集中することなどの話があった(公判供述三〇四ないし三〇六丁)、bは、自分が担当する路線名と降車駅を言われ、詳しいことはペアの人から聞いてくれと言われた、六時ころと言われたかは分からないが、明日早朝に出発することと、下見に行ってくれとは言われた(公判供述五六四九ないし五六五二丁、五六五五丁)、Qは、被告人から、組合せを聞いたと思うが、そのほかのことについてははっきりしない、下見をした方がいいだろうという話はあったと思う、なお、自分の担当路線、降車駅については被告人から今川アジトで聞いた、被告人から降車駅の二つ三つ前の駅で乗るようにとの指示もあった(公判供述五八四丁、五九〇丁、五九一丁、五九六丁)、Sは、路線、乗降駅、車両、犯行時刻、組合せ、使用車等の決定があったが、被告人が中心になって最終的な打合せをしたかは分からないが、被告人が運転者役を集めて緊急連絡先を教えていたことは覚えている(公判供述四七八、四七九丁)、Oは、結局、Dが自分たちに言ったことだが、被告人を中心として、どのように実行していくかの話になり、担当路線や乗車車両の位置は被告人から指示された、実行時刻については実行犯メンバーの中から話が出て、最終的に被告人が取りまとめたが、組合せは被告人以外の実行役から聞いた、状況から考えて被告人が最初にDの伝言があるから集まって下さいと切り出したのだと思う(公判供述一四六丁、四七六四丁以下)、aは、被告人が指示したことで覚えているのは、明日(二〇日)朝、霞ヶ関駅で乗り降りする客を狙って、五組に分かれて一斉に地下鉄の車両の中にサリンを撒くこと、組合せ、乗降駅くらいである(甲A一二〇三四、公判調書五七〇七丁等)などとそれぞれ供述しており、最終確認がいかなるものであるかは別としても、被告人が、中心となって話を進める形態をとって、翌日朝に一斉に犯行を実施することとして、そのための実行役と運転者役の組合せについての乙川の指示をDからの伝言として本人達に伝え、その他に撒布をする路線や乗降駅、乗車車両、下見などの話が出たことは概ね一致している(なお、被告人から今川アジトで担当路線や降車駅を聞いた旨のQ供述は、前後の経緯からして誤りであることが明らかであり、そのほか同人の供述内容は、実行役と運転者の組合せについてTが自分の意向を被告人に伝えてその了解を得たと述べるなど、客観的にも信用し難い部分がみられる。また、被告人から、サリンの量についての話や下見の積極的指示などが出たかについては、そこまで認めるに足る証拠がない。)。そうすると、被告人が、その公判供述で述べるように、自らがその場における指揮者として皆を呼び集めて、指示をするまでの意図がなく、実際にそのようなつもりで指示まではしていないとしても、集まった者に対して、その中心となって、初めに口火を切って情報の伝達を行っていること(公判供述七三五四丁)や被告人が初めて知った情報についてもTから聞くなどしながら話を進めることは可能であったことなどに照らせば、被告人が、話合いの中心となって最終的な指示、確認を行ったとするに見合うような行動をとっていたことが認められる。

(3) また、現金を配った点について、Tは、渋谷アジトにおいて、被告人が全員に対して指示した後に、実行役何人かに五万円ずつを配っていたが、自分は辞退したと供述し(公判供述三二七〇丁)、Oは、出発前にもらったというのは確かであり、出発前に被告人が渋谷アジトにいた記憶なので、被告人から五万円もらったと思う旨供述し(公判供述一六三丁、二四〇丁)、Sは、渋谷アジトに戻る際にDから一〇万円を受け取ったが渋谷アジトでは現金をもらっていないと供述し(公判供述四九七丁)、Vは、出発前に荷物と一緒に五万円か一〇万円が置かれていた旨供述しており(甲A一一九〇二)、Qは渋谷でTから受け取ったように思うと供述する(公判供述六五一丁)など、実行役の供述はさまざまであるが、配られた現金の主目的が運転者役と会えない等の支障が生じた緊急時に備えての逃走用であることは間違いないところとみられ、そうだとすれば、出発前に配られたとするOやVの記憶は具体的で信用性がある。しかし、関係証拠上、実行役が運転者と共に渋谷アジトを出発したのは三月二〇日午前六時ころであり、被告人が渋谷アジトに着いたのは早くとも午前六時半過ぎであることが認められるから、被告人は実行メンバーが渋谷アジトを出発する際にはその場にいなかったのであり、その際に被告人が現金を渡すことは不可能である。また、被告人が渋谷アジトの会議の中心的存在であったことはほぼ一致して実行役らが供述しており、その会議の際に現金が配られていれば、当然現金を受け取った者の記憶に残っていておかしくないと思われるが、その趣旨を供述しているのは自らは受け取らなかったとするTと運転者役のb(公判供述五六七七丁)くらいであり、それ以外の実行役らはそのようなことを述べていない。そうすると、現金を配ったのが被告人である可能性は低いというべきである。

(4) なお、検察官は、被告人が、逃走資金を渡し、緊急用の連絡先を教えるなどして、犯行中は渋谷アジトで待機して、緊急事態に対応する態勢をとっていたと主張するが、逃走資金を渡したかについては右のとおりである。また、被告人の携帯電話の番号を教えたことについては、それ自体は争いがないが、被告人は、渋谷アジトの連絡先を聞かれたが、それはまずいと考えて、自分の携帯電話の番号を教えただけである旨供述する(公判供述四五一五丁)ところ、□□爆発事件等を終えた被告人は、その後、上九にいる乙川に報告に行くことを考えており、上九からも実行メンバーが出発する時間までに、渋谷アジトに戻れるにもかかわらず、今川アジトに帰っていることなどからすると、被告人が、初めから緊急事態に即応すべき態勢をとることを予定して、携帯電話の番号を教えたとまでは認められない。

しかし、被告人は、実行犯メンバーに何かあったときには、犯行について知っているのは自分で、自分は自由に動けるから、いてあげた方が何かあったときに彼らを助けることができるかな、と願って渋谷アジトに行くことにした(乙A一〇)、東京でこれからサリン事件が行われることを知っていて自由に動けるのは自分しかいないから、自分がいてあげた方が何らかかの形で手助けできるだろう、地下鉄サリン事件そのものはグルの意思だし、知っている以上できることはしてやろうとして渋谷アジトへわざわざ出向いた、これから自分の仲間がやるものすごい大きな事件が起きるのを知っていて、東京にいてじっとはしていられなかった(公判供述四五二一丁、四五二二丁)、知らんふりして、今川アジトでふて寝してしまうことはできない、とにかく何かあったときに助けてあげることはできるかもしれない(公判供述六七四三丁)、自分でできることはということで当日現場(渋谷アジト)に行った(公判供述七三五三丁)などと供述しており、結局は、当日、緊急事態が生じた場合などには自ら支援することを考えて、それに備えるべく自主的に(乙A一五)渋谷アジトに行ったことは、十分推認できる。

(5) 以上よりすると、被告人は、渋谷アジトにおいて、犯行メンバーがまだ知らない実行役と運転者役の組合せ等に関する乙川の指示を伝達し、具体的な計画や実行の手順に言及し、さらに、緊急用の連絡先として自己の携帯電話の番号を教えるなどしたのであって、当時被告人が既に正悟師の地位にあったことなどを併せ考えると、これらの行動は、被告人の意思に関わらず、他のメンバーに対して、被告人が指揮をとるかのようにみられる行為に出ていたものと見受けられる。

五  そこで、以上の点を踏まえて、被告人の正犯性を検討する。

1 被告人の関与した行動について

前記に認定してきた事実によれば、被告人の関与した行為には、

① リムジン内における話に加わっていたこと、

② T、Oと本件について相談したこと、

③ Dの部屋に行って、地下鉄に関する本を提供し、意見を述べ、乗降駅、決行時刻等が決められたこと、

④ Tに、場合によっては今川アジトの使用を認めたこと、

⑤ Dと共に乙川の部屋に行き、本件(及びそれに伴う□□爆発事件等)の実行について乙川の判断に従うと述べ、実行役と運転者役の組合せの指示を聞き、Dの指示で、右組合せを伝達し、渋谷アジトを提供し、車五台を調達したこと、

⑥ 今川アジトで、Tに組合せ等を伝え、渋谷アジトへの移動を指示したこと、

⑦ 渋谷アジトに実行役及び運転者全員が集結した中での話合いに際して、Dの指示を伝達し、犯行の詳細についての話をするなどして、会議を取りまとめ、その中心になったこと、

⑧ Dの指示を受けて犯行に使用する傘を購入し、先を削るのを手伝ったこと、

⑨ 犯行後、傘、衣類などを処分したこと

などが認められる。

2 被告人の関与行為の位置付け

(1)  本件全証拠によっても、乙川及びDが本件犯行の実行を決意した謀議の存在やその状況は必ずしも明らかでなく、いずれにせよ、その際に被告人が犯行メンバーに含まれていたこと、さらに、その後において、被告人が、乙川あるいはDから現場指揮者として本件の指揮にあたる旨の役割を指示されたことを認めるに足りる証拠はない(この点、検察官も、第三五回公判でその旨主張していた従前の冒頭陳述の内容を削除しているところである。)。

また、本件の具体的犯行計画、方法等が決定された経緯をみると、リムジン内においては、地下鉄にサリンを撒くことや実行役五名の名前があげられていただけであり、具体的な犯行日時、場所、方法等については、何ら言及されていないこと、他方、犯行日や場所はDから三月一八日早朝に実行役四名に指示される際には既に決められていたのであり、被告人はその決定に関与していないこと、サリン撒布の方法については、三月一八日からD、S及びVが中心に検討していたものの、実行役が東京に向けて出発するまでには確定されておらず、最終的には実行役に三月二〇日未明に上九でビニール袋入りのサリンを渡すまでに、Dらにおいて決めたものと窺え、被告人がこれに関与した形跡はないこと、実行役の担当路線は今川アジトにおいて、Tらが決めたことであり、被告人は、下見に行くなどの現実的行動は何もしていないこと、運転者五名についても、Dが乙川の指示を仰いで乙川が決めたものであるところ、この指示を受けた際の状況をみても、□□爆発事件等に使用する爆弾等を受け取るためDを探していた被告人が、たまたま出会ったDから一緒に来ないかと誘われて乙川の部屋に行った際のものであり、乙川の一方的な意思であることが認められ、結局、被告人が本件の具体的実行方法の決定に関わったのは、三月一八日夕方にDの部屋で乗降駅や決行時刻を決めたことだけである。そして、その場にいたTによれば、決定や指示はあくまでDが行ったのである(甲A一一九九五)。このことは、渋谷アジトでの会議において、被告人が言ったことは、既にDやTから聞くなどして分かっていたことであって、新しいことは組合せ以外なかったし、指示というより最終的確認であったというVの供述(甲A一一九〇一)、Dの部屋で聞いたことを少し具体的に言ったまでで、乙川、Dの指示内容を、指示されたとおりに告げたものと理解したというOの供述(公判供述一九六丁)等からも窺え、現場指揮者であるならば、犯行計画、方法等について、少なくとも指揮すべき実行犯メンバー以上に当初から熟知していてしかるべきと思われるところ、被告人が本件犯行の具体的な決定に関わったのは現場指揮者とすればわずかである。また、渋谷アジトにおける最終的確認、指示についても、被告人が、その直前の□□爆発事件等を一緒に実行したメンバーで本件のことは知らされていないA6らとその後に食事しようとして、同人らを渋谷アジト付近まで同行し、待たせるなどしていた経緯(乙A一〇等。A6の公判供述につき公判調書三九一八丁、三九三七丁)からすると、被告人がそれほど重大視していたものとも思われない。とりわけ、渋谷アジトにおける被告人の果たした役割の評価をする関係で考慮すべきはGの存在である。すなわち、例えば、Sがステージの下の者が上の者に対して指示することは考えられない旨明言するように、ステージ制がとられ、その段階による上下関係が明確かつ厳格であった教団内にあっては、被告人が明らかに上の段階に位置するGを差し置き、そればかりかGに対しても指示、命令するようなことは到底考えられない事態である。このことは、判示第二ないし第四のVX関連事件の一連の経緯における被告人とGの関係を見ても明らかである。そうすると、本件渋谷アジトでの被告人の言動やその実質的な役割を考察するにあたっては、被告人が相手とした実行役、運転者役の中にGが存在していたことを度外視することはできず、被告人がGに対しても指示するような役割を果たしたものとは考え難いし、現にGが何ら被告人の言動に対して異を唱えた形跡が窺えないことからすると、被告人の行ったことは、事柄の性質上からしても、これを実質的にみる限り、せいぜいDからの指示の単なる伝達と実行役、運転者役らの協議の進行役を務めたに過ぎないものと評価すべきである。

さらに、被告人が行った行為には、現場指揮者としての指揮権を発揮したり、独自の決定行為や指示をしたものは見当たらない。かえって、時間的には十分間に合う関係にあったにもかかわらず、今川アジトに立ち寄って休むなどして、実行メンバーが犯行のため出発した後になって渋谷アジトに着くなどした被告人の行動は、検察官が主張する(論告要旨一二二頁)ような「上九一色村で総指揮を執る乙川及びDと東京都内においてサリン散布の実行にあたる実行者及び運転者との間に入って犯行を計画どおり推進できる強力な統率力を持っ」て「実行者及び運転者を指揮して犯行を積極的に推進した」現場指揮者というには不自然とみるしかないし、当日未明に被告人が、Tの依頼を受けて、まだサリンが届いていないことの確認も併せて行うべく、上九へ出向いている途中、その知らない間に、実行役全員がDの命で東京から上九へ往復する事態となり、挙げ句の果てに乙川から、「何でお前は勝手に動くんだ」と怒られ、「人間は同時にたくさんいろんなことはできないんだから、やったって失敗するんだから、サリンはすべてDに任せておけ」などと叱責されるに至ったこと(乙A一〇等)なども、それまで被告人が実行役と共にあったことからするとお粗末であり、その後実行役らと別途に東京へ向かったのも、支援態勢をとるべき現場責任者としては不可解である。その結果、被告人は、前後の経緯等からすると、十分可能であったと思われる肝心のサリンの運搬、実行役への受渡し等についても、結局は何らの関与もないままに終わっている。この間の事情は、DがTらを上九に呼びつける際、Tにおいて、既に被告人が上九へ向かっていると弁解したのに対して、「アーナンダ師は関係ないんだ」と言っていること(公判供述三二七九丁)からも、よく裏付けられる。また、被告人は自らが指示された事項(ワーク)については、こまめに乙川にその実行状況や結果を報告しているのに、本件については何らそのような形跡が窺えないのである。

そうすると、被告人の関与行為そのものは、せいぜい後方支援ないし連絡調整的な役割にとどまり、客観的には被告人が検察官の主張するような現場指揮者というに値するだけの実態があったものとはいえない。

(2) しかし、他方、被告人の関与行為が本件に与えた影響を見ると、本件は、リムジン内で、地下鉄にサリンを撒くことが話されてから犯行の実行まで、約五〇余時間しかなく、その大規模な組織的、計画的犯行の態様に比べると極めて短時間で遂行された犯行である。その中にあって、被告人は、実行役らが集結、使用するアジトを提供したり、車を調達したりするなど、被告人が長らく信徒活動を行ってきた上、諜報省長官として有していた調達能力がなければ困難な種々の行為を引き受け実行して、短時間の犯行準備を可能ならしめている。また、被告人は、現場において実行メンバー以外に本件を知る数少ない一人であり、本件当時の客観的状況からして、(例えば、Oなどの)当該メンバーを除けば、被告人以外に実行役と運転者の組合せ等に関する事項を東京に集結していた実行役らに的確に伝達する役を果たせる者は考え難く、本件犯行の遂行、実現にあたって重要な役割を果たしていたと認められる。

加えて、被告人は、犯行当時正悟師の地位にあり、Gを除けば東京の現場において最も高い地位にあったもので、その被告人が、話合いで中心的に発言し、犯行の準備に関わったことは、実行メンバーにとっては、被告人が、実行メンバーを統括し、犯行の遂行にあたるものと思わせ、ひいては、被告人の指示に従えばいいと思わせるに至ったものと容易に理解でき、このことは、Sが公判廷で、被告人の関与があったことから、本件が手際良く実行されたとし、早期の段階から被告人の役割が決められていた旨を供述している(公判供述四四六、五二三丁)ように、実行メンバーが、いずれも被告人について、現場のリーダー、指示を出す役、まとめ役、議長あるいは、乙川、Dとの連絡役でその代行などと供述していることからも明らかである。また、被告人自身も「自分がやらなくても、手際は悪くなるかもしれないが、他の者でもできたことで、本件の実行は可能であった。」と供述する一方で、「(被告人の自分の行動に対する認識と被告人の行動をみる周りの目との間に違いがあることを)最近気付いてきました。」と供述しているところである(公判供述七三七六丁)。

そうすると、被告人の関与が、客観的な行為自体としては、現場指揮者に値するようなものではなかったとしても、それらの行為を被告人が行うことによる効果はかなりあり、本件の遂行、実現にあたって、他の者では果たし得ないものとして、被告人の関与の意味は重要であると位置付けられる。

3 被告人の認識等

(1) 本件犯行の目的が教団に対する強制捜査の妨害であることは、前記のとおりである。

そして、被告人は、右目的を十分に認識し、教団が本件を起こすことはまずいのではないかという意識をもっていたものの(公判供述七三六一丁)、結局は、それを容認していたことが認められる。

(2) また、被告人が、乙川から、リムジン内で、「お前はもういい。」と言われ、三月二〇日未明に乙川の部屋に行った際にも、「余計なことをするな。」「Dに任せておけばいい。」などと言われている経緯や自分が犯行メンバーとは思っていない事情があるにもかかわらず、なお、自らTやDのところに出向いたり、乙川のところへもDに誘われるまま付いて行くなどして本件犯行に関わるようなことをした理由について、被告人は、「当時ワークから外されると頑張ってやらなければならない。本件をDがやることになった場を知っているわけだから、自分としてはできることはやらなければならない。」「教団が存亡をかけている状況なわけで、自分としてはできることをやらなければいけないと思ったのではないか。」と、また、Tの部屋に行った理由について、「Dが五人のメンバーを使って本件をやると言っても、もろもろの手配のことというのが必要になってくるだろうと、僕に回ってくる可能性もあるんじゃないかと思っていたんじゃないかと思う。どうせ回ってくるんだろうから、そのときにやらないといけないし、それを聞こうとしたのではないかと思う」旨供述している(公判供述七三六四丁)。

そうすると、被告人自身にも本件に加担する動機があったことが認められる。

(3) そして、被告人は、本件サリンの撒布に関与した実行役、運転者の誰一人として参加していない、本件に関する乙川、Dの謀議に同席し、乙川が実行役、運転者役及びその組合せを指示する場面に立ち会っているのである。また、被告人は、三月一九日夜に東京で実行犯メンバーが集結する場所として、どこかないかとDから尋ねられた際、午後八時以降であれば使用可能であると留保した上で渋谷アジトをあげた旨述べているところ、そのように時刻を限定した理由は、そのころであれば、□□爆発事件等の実行を終わって自らが渋谷アジトへ行けるだろうと考えていたというのであるから(乙A一四)、そのこと自体、当時被告人が本件にも関わりをもつ意向であったことを示すものといえる。さらに、被告人が本件犯行について積極的な姿勢を示していたことは、本件犯行の前日、□□爆発事件等を敢行した後に、被告人が、A6に対して、あした大変なことが起きるかもしれないなと言っていたこと(公判供述三九一九丁、三九三八丁。なお、A2に対しても話していることにつき公判調書三九九五丁)などからも窺われる。そうすると、Tの部屋に行き、同人と本件についての話をしたことを契機とするその後の被告人の言動は、明らかに被告人がそれと意識しつつ、本件の犯行に自らさまざまな形で関与していったものと認めるに十分である。

4 以上によれば、被告人は、本件に加担することになるかもしれないとか、自分にできることはやらなければならないなどと考えながら、TやOのところへ行き、Dの部屋に行って、地下鉄の情報を提供するなど、本件に次第に深く関与し始め、その後も、Dに「来ないか。」と言われて、乙川の部屋に行き、その結果、Dから、車の調達や伝達役を依頼され、渋谷アジトの会議でも自ら最初に発言するなどの行動をとり、犯行当日も、わざわざ渋谷アジトに出かけ、本件証拠品の処分に関与しているのであって、このような被告人の関与の態様、状況、被告人が関与することによる意味、影響、被告人自身の動機、認識などに鑑みると、弁護人が指摘するその余の点を検討しても、被告人は、本件の幇助犯にとどまるものではなく、共謀共同正犯の責任を負うものと認められる。

六  よって、判示のとおり認定した。

第六  判示第九の事実(以下「新宿青酸事件」あるいは本項では単に「本件」ともいう。)について

一  弁護人は、被告人は、公衆便所の利用者等を殺害する意思はなく、青酸ガスによる人の死の結果発生について表象も認容もしておらず、被告人の行為は傷害未遂に該当するに過ぎないと主張する。

二  関係各証拠によれば、以下の事実が認められる(本項第六において単に月日のみを記載したものは平成七年である。)。

1 地下鉄サリン事件後の平成七年三月二二日、上九一色村の教団施設が警察による捜索を受けた。

被告人は、同年一月にいわゆる阪神大震災が起こった際に、乙川から「大地震があったから、警察の強制捜査が来なかった。また強制捜査が来そうになったら石油コンビナートを爆破して捜査をかく乱したらいい。暇があれば調べておけ。」などと言われていたことから、右警察の強制捜査後、kにその調査を指示したり、四月三日ころから、Dの指示で、Hらと共に、教団が所持していたけん銃の部品を廃棄したり、薬品等を日光山中に埋めて隠匿するなどしていた。

四月一一日、被告人は、Hと共に、青山東京総本部道場において、Dから、「警察の捜査をかく乱し、尊師の逮捕を阻止するためにできることは何でもやれ。」と指示され、そのひとつとして気化爆弾の使用があげられたことから、翌一二日、T、Qらに、右指示を伝えて具体的方策を話し合った。その結果、ダイオキシンを撒布して騒ぎを起こすという方向が決まった。同月一六日、被告人は、乙川に呼び出され、石油コンビナートの爆破などをあげて、四月三〇日までに大規模な事件を実行し、その後も三〇日ごとに大きな騒ぎとなるような事件を起こし、捜査をかく乱しろとの内容を命じられた。同月一八日に東京都八王子市所在の八王子アジトに移動した被告人らは、被告人、H、Q、k、Tを中心に捜査かく乱のための具体的な方策につき、さらに検討を続けた。その中では、石油コンビナートの爆破、ダイオキシンの撒布、列車の転覆などが検討され、下見なども行われたが、いずれも容易に実現することはできそうになかった。この間、被告人は、自らに対する逮捕状が発付されたことを知って、外出しないようになった。

2 四月二三日、Dが何者かに刺され、翌二四日に死亡した。被告人は、それまでDから直接の指示を受けていたこともあり、oを通じて、乙川の意思を確認したところ、これまでの指示に変更はないことを聞かされたため、さらに同月二六日ころ、Hら四人と同月三〇日までに何ができるかを話し合い、Hが青酸ガスなら直ちに製造できると発言したことから、青酸ガスを手段とすることが決まり、そのための準備や青酸ガス発生装置の設置場所などについて話し合った。

その後、Hが青酸ガス発生装置の考案を始め、n及びmが日光山中から所要の薬品を掘り出し、Tが設置候補場所の下見をするなどして準備を進めた。そして、四月二九日、八王子アジトに警察がくるかもしれないと危惧して、一時東京都杉並区所在の永福町アジトに移動した被告人らは、同所で青酸ガス発生装置の設置場所について話し合った結果、多数の人が集まる繁華街である上、監視カメラがないことなどから、新宿駅地下道のトイレを設置場所と決めた。この際、Hは、「少なくとも大便をしている人はそのままの格好で死ぬかもしれない。」などと発言した。

3 四月三〇日、Hが青酸ガス発生装置を完成させ、Tがこれを新宿京王モールの地下トイレに設置したが、Hが砂糖を薬品と取り違えて装置を製作していたため、青酸ガスは発生しなかった。

八王子アジトに戻った被告人らは、右失敗の原因を話し合い、やはり何らかの事件を起こす必要があるとして再度の実行を決め、五月三日、Hが新たに製作した青酸ガス発生装置を新宿駅東口地下道のトイレに設置しようとしたが、人通りが多かったことなどから設置するには至らなかった。同日、八王子アジトに持ち帰った青酸ガス発生装置を分解していたHが誤って青酸ガスを発生させたため、被告人らが避難する騒ぎがあった。

4 五月四日、再度、青酸ガス発生装置の設置についての話合いが行なわれ、その結果、設置場所はこれまでと同様に新宿の地下トイレにすること、清掃作業員に片付けられないように清掃後に設置することなどが決められ、それに沿って準備が進められた。被告人は、具体的な実行方法が決められた際には、席を外していたが、実行日や設置場所などについては同日中に聞いて知っていた。

五月五日、午後四時過ぎ、清掃が終了した旨の連絡を受けたHが、営団地下鉄丸ノ内線新宿駅東口脇男子公衆便所(以下「本件トイレ」という。)内の一番奥の個室に備付けのごみ入れ容器内に青酸ガス発生装置(以下「本件装置」ともいう。)を設置し、本件犯行に及んだ。

5 本件装置が設置された後、何者かが本件装置のうち希硫酸入りビニール袋だけをごみ容器内から取り出してその脇に置き、さらに、清掃作業員がそのビニール袋とシアン化ナトリウム、発火装置入りのビニール袋を本件トイレ出入口付近に並べて置いた。時間の経過により発火装置が作動して発火したものの発見されて消火され、希硫酸入りビニール袋が横に置かれていたため青酸ガスは発生しなかった。

三  なお、検察官は、論告要旨(三三一頁以下)において、被告人が本件犯行の具体的実行に関する五月四日の話合いに同席していたと主張するので付言する。

この点について、被告人が席を外していたと明確に供述しているのは被告人だけである(弁護人の弁論二〇〇頁でも、被告人の同席を前提としている。)。

しかし、永福町アジトに移動したときを除くと、被告人は逮捕状が出ていると知った四月一八日ころから、いつも八王子アジト内にいたこと、本件犯行を企図、実行したメンバーの中では被告人のステージが一番高かったこと、本件犯行の遂行に至るまでには、ほぼ同じメンバーの間で多くの話合いの場があり、その際には被告人も同席していたこと、現に被告人を含む前記五名の者について各話合いの際に常に全員がそろっていたわけではないものの、その詳細は各人ともに必ずしも明らかには供述し得ていないことなどからすれば、他の者がこの時にも当然被告人がいたはずであるとして、被告人がたまたま席を外したことを明確に記憶していない、あるいは、特段供述しなければならないこととして認識していないとしても、とりわけ不自然というわけではない。さらに、Q及びkは、いずれも、そのときの話合いの場面を具体的に供述していない(Qにつき公判供述一六一七ないし一六二〇丁)上、kは、五月四日には、Tが指示することにつき被告人の了解があっただろうと思うとしながら、清掃の時間等の調査をTから指示されたと供述している(公判供述一七四八丁)。そして、HとQが本件装置に関わり、Tとkが下見や調査をしているところからして、逮捕状が出て外出できない被告人が、具体的な犯行方法について発言を控えたというのも不自然、不合理とまではいえない。そうすると、被告人の供述を排斥するに足る証拠はなく、前記二4のとおり認定したものである。

四  被告人の殺意について

1 弁護人は、被告人は、五月三日、八王子アジトの台所でHが誤って発生させた青酸ガスをたまたま吸ってしまったものの、それほどの被害はなく死に至らなかった経験から、青酸ガスの毒性はさほど強力ではないとの認識を有しており、殺意はなかった旨主張するが、当裁判所は判示のとおり認定したので以下説明する。

2 本件の動機について

前記認定の事実によれば、本件犯行は、地下鉄サリン事件後に教団が警察の捜索を受けたことから、その後の教団に対する警察の捜査をかく乱し、乙川の逮捕を阻止するために行ったものであったことは明らかであり、被告人もその点について乙川及びDから直接に説明されており、被告人自身も供述するように(公判供述四五三一丁)、被告人がその点を認識していたことが認められる。

そして、そのために話し合われていた具体的方策は、気化爆弾、石油コンビナートの爆破、ダイオキシンの撒布、列車転覆などいずれも大規模な事件であり、いわゆる松本サリン事件、假谷事件などに引き続いて地下鉄サリン事件が発生し、しかも、地下鉄サリン事件が既に生じていただけでも大きな被害を出し、世間を騒がせていた当時の状況下にあって、警察の捜査をかく乱し、乙川の逮捕を阻止しようとするためには、単に騒ぎを起こす程度にとどまるだけではその目的を達し得ないことは、被告人も認識していたはずであるとみられるから(公判供述七三五八丁)、被告人が、当時可能な範囲で、右の方策に代わるものとして本件を考えていたことが認められる。

3 青酸ガス発生装置について

(1) 本件装置の構造など

本件装置は、約一四九七グラムのシアン化ナトリウムの粉末が入ったビニール袋上に、縦約五センチメートル、横及び高さ約2.5センチメートルのダンボール箱を置き、その底部に塩素酸カリウムと粉砂糖を混合した粉末約三グラムを敷き、濃硫酸を入れたペットボトルを入れ、さらに、これらの上に約六二パーセント濃度の希硫酸約一四一〇ミリリットル入りのビニール袋を置いた構造を有し、一定時間が経過すると、腐食したペットボトルから濃硫酸が浸出し、発火剤と反応して発火し、それにより希硫酸入りビニール袋が焼損され、流出した希硫酸と下部に置かれたシアン化ナトリウムが反応し、青酸ガスが発生するというものである(甲E三二、二五二ないし二五四、公判供述三六一一、三六二〇丁)。

本件においては、前記のとおり、第三者の手により上部の希硫酸入りビニール袋が分離されたため、青酸ガスの発生に至らなかったものの、本件装置を製作したHの供述をもとにした捜査段階での実験においては、ビニール袋の焼損が確認されており、本件装置が青酸ガスの発生可能な装置であったことが認められる(甲E四五)。

(2) 本件装置の性能について

本件で使用されたシアン化ナトリウムは、工業用の純度98.90パーセントのものであると認められ、本件装置が予定どおり作動した場合、理論上は約七〇〇グラムの青酸ガスが発生することになる(公判供述三六二〇丁)が、希硫酸とシアン化ナトリウムの反応率を低く想定しても約半分の量の青酸ガスが発生するはずであった(公判供述三六二四丁)。

そして、青酸ガスを経気道吸入した場合に、被験個体数の全数が死亡する量は一人あたり約0.05グラムないし0.1グラムである(公判供述三六一七丁)から、本件装置は、理論上は、少なくとも三五〇〇人程度の人を死亡させるに足る青酸ガス発生の威力を有することになる。

4 本件装置の設置場所、設置日時等について

本件トイレは、新宿駅を東西に横切る形で延びており通称メトロプロムナードと呼ばれる人が多く集まる新宿駅の地下通路にあるところ、本件犯行は祝日である五月五日の夕方に行われたものであり、青酸ガスが発生するであろう時点にあっても多くの利用者がいることは容易に考え得る。また、本件トイレは、地下道に存在し、天井の高さ約2.4メートル、幅約四メートル、奥行き約5.5メートルに区切られた空間であり(甲E六、一〇)、いったん青酸ガスが発生すれば容易にそのガスがトイレ内に充満すると考えるのが通常であり、被告人らの目論みどおりに青酸ガスが発生していれば、利用者等に影響が出やすい場所である。

5 被告人の認識について

被告人は、本件当時、Hから、青酸ガスについては、初期の毒ガス兵器の一種であり、また、本件装置によって、(個室)トイレを使用している人がいれば亡くなるだろうと聞かされていたことから、青酸ガス及び本件装置の殺傷能力を承知していた(公判供述四五三二丁等)。また、被告人は、初めに設置場所を決めた際の話合いなどから、設置場所が前記のとおり利用者が存在する可能性が高く、影響が出やすい場所であることをも認識していたものと認められる。

弁護人は、被告人の青酸ガスの毒性に関する認識について、前記のとおり主張するが、被告人自身、公判廷において、その経験に関し、それまでに思っていたよりは怖くないかもしれないと思ったが、誤発生した量は微量であった上、青酸ガスと知った上でのことであったので、知らない人に対しては当然危険だろうという意識はあった旨供述しており(公判供述四五三二丁)、現に、亡くなる可能性があると思っていた旨も供述しているのである(公判供述七一九七丁)から、被告人が、なお青酸ガスに殺傷力があることを認識していたことは明らかである。このことは、現場にいて多少ガスを吸った可能性のあるQが、青酸ガスの具体的特性までは知らなかったものの、誤って発生させたのは、ほんのわずかの硫酸がかかったもので、自分たちが当時目論んでいたのは、非常に大量の薬品を使用して、もっと多量の青酸ガスを発生させることであったから、この程度のものかという認識は持たなかったなどと、右と同趣旨を述べているところ(公判供述一六六二丁)に照らしても、裏付けられるというべきである。

6 以上に検討した点に鑑みれば、被告人にはトイレの利用者等を殺害しようとの故意があったと認められる。

なお、被告人は、公判廷において、騒ぎを起こさなければいけないという目的があり、そのためには人が亡くなるのも仕方がないという認識であった旨供述し(公判供述四五三三丁)、本件での故意はあったが、それは未必の故意にとどまると受け取れるような供述をしている。しかし、本件が、警察の捜査をかく乱し、乙川の逮捕を阻止しようとするものであり、そのために乙川があげた石油コンビナートの爆破などに代わるものであったことなどに照らせば、被告人は、青酸ガスを発生させて人を死傷させる騒ぎを起こすことにより、警察の捜査をかく乱し、乙川の逮捕を阻止するとの指示を実行しようとしたものと認めるのが相当である。この点の被告人の供述は、当時の被告人としては警察の捜査のかく乱が本来の目的であったことを主として供述しようとした結果のもので、これをもって未必の故意しかなかったと判断することはできない。

五  不特定多数人に対する殺意について

1 検察官は、本件が、大量殺りくを意図したテロとして計画されたもので、被告人は、本件トイレの利用者だけでなく、青酸ガスを多数の通行人がいる通路にまで充満させ、不特定多数人を殺害する意図を有していた旨主張する。

2 本件が、警察の捜査をかく乱し、乙川の逮捕を阻止しようとの目的で、そのために、石油コンビナートの爆破、ダイオキシン撒布、気化爆弾等に代わるものとして発案されたことは前記認定のとおりである。

しかし、他方、本件手段が決定されたのは、石油コンビナートの爆破などが少なくとも短期間では実現不可能であり、青酸ガスであれば、乙川が指定した四月三〇日に間に合うものであったからであることが認められる。したがって、それまで検討していたものに匹敵する程度の大規模な結果を引き起こそうとしたものとまではみることができない。そして、被告人らは、青酸ガス発生装置を設置する場所について、公園などではガスが拡散してしまい騒ぎが起きないとして、閉鎖性の高い地下を選定している面もあるものの(公判供述一五九七丁)、その過程においては、ディスコでは若い人が多く社会的に問題となり、映画館では騒ぎになったときに被害が大きくなりすぎることなどを理由として、いずれも設置場所にしなかった経緯があること(公判供述三七一五丁)、本件装置を設置したのは本件トイレの一番奥であり、地下通路までを対象とするには不合理な場所であること、本件と同じ目的で行なわれた四月三〇日の青酸ガス発生装置設置に使用されたシアン化ナトリウムの量は約一〇〇グラムであったこと(甲E二五三)、k(公判供述一七三七丁)、T(公判供述三七一五丁)はいずれも大量無差別殺人は意図していなかったと供述し、被告人も同様に供述している(公判供述四五三二丁)ことなどの事情が認められる。

これらに前記認定の本件犯行の経緯や態様を併せ鑑みれば、被告人の殺意は、主に本件トイレ内の人を対象としたものであって、法律上の不特定多数には該当するものの、青酸ガスを地下通路にも充満させるなどのいわゆる大量無差別殺人の故意があったとまでは認められず、この点の検察官の主張は採用できない。

六  以上により、判示第九の事実を認定した。

第七  判示第一〇の一及び二の各事実(以下「都庁事件」あるいは本項では単に「本件」ともいう。)について

一  弁護人は、被告人には、青島東京都知事(本件当時の知事。以下「都知事」ともいう。)等に対する殺意はなく、また、本件で製造、使用された手製爆発物(以下「本件爆弾」ともいう。)は爆発物取締罰則にいう「爆発物」には該当せず、さらに、被告人には、同罰則一条所定の目的も、同罰則の適用を受ける爆発物であることの認識もないから、被告人には同罰則の適用はなく、判示第一〇の一の事実については犯罪が成立せず、判示第一〇の二の事実については傷害罪が成立するにとどまると主張する。

二  関係各証拠によれば、以下の事実が認められる(本項第七において単に月日のみを記載したものは平成七年である。)。

1 前記第九の犯行後、被告人、H、T、Q及びkは、第六項記載の乙川の指示に従い、五月三〇日に向けての捜査かく乱の計画を進めていたところ、同月八日ころ八王子アジトにきたoから乙川のメッセージとして、「有能神が怒っている、これから一週間の間に何が起こっても動揺しないように」との内容を伝えられ、乙川がパソコン通信により全サマナ(信者)に向けて、「一週間以内に何があっても動揺しないように」とのメッセージを送っていることを知り、乙川の意図を推し量った結果、一週間以内に乙川が逮捕されてしまうのであれば、一週間以内に逮捕を阻止するために捜査をかく乱しなければならないものと認識し、それを実践しようとの結論に至った。そして、Hが、爆弾ならすぐに用意できる旨を発言したことから、小包爆弾を要人に送り付けることにし、その名宛人については、平成七年四月に東京都知事に就任し、世界都市博覧会の開催中止を主張して世間を賑わせていた青島都知事にすれば、同博覧会の開催中止に反対する者の犯行に偽装できるなどと考え、同都知事を標的とすることにし、差出人については、同博覧会の開催中止に反対していた都議会議員、住所は、同博覧会の開催中止で大きな損害を被ると見られていた東京都中央区銀座所在の日航ホテルとすることにした。

2 五月九日ころから、H、QさらにZが加わり、日光山中から掘り出してきていた薬品類を使用するなどして爆弾の製造をし、五月一一日爆発物が完成した。

そして、同日、kが、封筒に宛名等を記載し、新宿区内のポストに投函した。本件爆弾は、翌一二日、東京都知事公館に配達された後、青島都知事が入居していなかったため、都庁に送られた。同月一六日、本件当時東京都総務局知事室秘書担当副参事であった内海某がこれを開封したところ、爆弾が爆発し、内海が判示のような重篤な傷害を負ったが、死亡者はなかった。

三  被告人の殺意について

1 本件の動機について

前記認定の事実及び前記第六項の認定事実によれば、本件犯行は、新宿青酸事件と一連の関係にあり、その動機については同事件に関して認定説示したとおりであるが、乙川が一週間以内に逮捕されるおそれが出てきたので、それに間に合うように早期に捜査をかく乱するだけの事件を起こさないといけないと認識したことから、実行が早まったものであって、乙川の逮捕阻止等の目的が一層強くあったものと認められる。

そして右の点については、被告人も、八王子アジトにおいて、Hらと乙川のメッセージの意図をどのように解釈するか話し合っていたのであるから、十分認識していたものと認められる。

2 爆発物について

(1) 本件爆弾の構造など

本件爆弾は、縦約19.5センチメートル、横一四センチメートル、厚さ約2.3センチメートルの書籍(甲E一一二)の内部をくり抜いたもので、その中にトリメチレントリニトロアミン(別名ヘキソーゲンあるいはRDX。以下「RDX」という。)約17.7グラムを充てんした縦約七センチメートル、高さ約1.5センチメートルのプラスティックケース、そのケースに取り付けられた起爆剤としてアジ化鉛を詰めたグロープラグ、乾電池及びスイッチなどからなり、書籍の表紙を開くとスイッチが作動し、通電して爆発するというものである(甲E一四六、二五〇)。

なお、RDXの量について、Hはプラスティックケースに手で押さえずに入れていっぱいに詰めたもので、計測していないが約七〇グラムくらいであった旨供述するところ、そのようにしてケースに軽く詰めた実験では17.7グラムという結果が出ているので、その限度で、右のとおりの量と認定した。

(2) 本件爆弾の性能について

RDXは、爆薬の一種で、家兎の場合、一般に爆風圧が平方センチメートルあたり五キログラムで即死するといわれているところ(甲E二二九)、本件爆弾の製造にあたったHの供述に基づき製造された爆弾を使用して行われた実験では、薬量が少なくとも爆発物に近接していると、平方センチメートルあたり一〇キログラム以上の爆風圧があり、いずれにせよ爆発の威力の程度は薬量によって異なるものの、RDX自体は三号桐ダイナマイトと比較しても威力が大きく、本件爆弾が爆風圧などから人に多大な影響を与える威力を有すると鑑定されたことが認められ(甲E一四六)、本件爆弾は十分な殺傷能力を有した爆弾と認められる。

3 本件の犯行態様について

本件爆弾は、書籍の外形をなし、それが茶封筒に詰められ、手書きで宛名や差出人が書かれ、切手が貼られたもので、外形からは一般の郵便物との区別は困難で、通常見ただけでは爆弾とは認識できないように工夫されたものである。そして、通常の郵便物と同様に都知事公館に配達され、差出人も現職の都議会議員名になっていることからすれば、名宛人である都知事あるいはその家族や都の職員によって開封される可能性は高いといえる。また、通常の郵便物を開封し、書籍を開いてみる姿勢からすれば、爆発時には、本件爆弾は人の手元など接近した距離にあることが当然に予想される。そうすると、本件犯行の手段は、人への影響が出る可能性が非常に高いと予想できる態様のものである。

4 被告人の認識について

被告人は、本件爆弾にRDXが使用されることを知っており、本件当時、Hから、RDXについては、黒色火薬と同じあるいはそれ以上の威力があることを聞かされるなどしていたところ、黒色火薬よりは威力があると十分に認識していたものである(公判供述七三五六丁)。加えて、被告人は、本件爆弾の威力について、Hから、開けたときに馬鹿にされない程度のものとの説明を受けており(公判供述四五三五丁)、本件爆弾に殺傷力があることの認識を有していたと認められる。右認定は、同様にQがHからペンスリットよりは威力があると聞き、扱いによっては人が死んでしまうかもしれないと考えた旨(公判供述一六三五丁)、kがHから強力な爆薬であると聞いており、場合によっては青島都知事が亡くなることもあり得ると思っていた旨(公判供述一七六五、一七六七丁)それぞれ述べるところともよく符合する。

これに対し、弁護人は、被告人は、Hから右の程度の説明しか受けていないので、本件爆弾の威力についての認識がなかったと主張する。確かに、被告人は、化学の専門知識があるわけでなく、本件爆弾に使用されたRDXの量も正確には知らなかったのであるから、本件爆弾でどの程度の被害を生ぜしむるかを正確には認識していなかったものと窺われる。しかし、前記被告人の認識に照らせば、被告人は、少なくとも本件爆弾が手元で爆発すれば、人が死亡する威力のあることは十分認識していたものと認めるのが相当である。この点の弁護人の主張は理由がない。

5 以上によれば、被告人は、殺傷能力を有する爆弾を、それと認識した上で、実在の現職都議会議員を差出人として一般の郵便物を装い都知事宛に送ったもので、本件の動機等をも勘案すれば、被告人には都知事等を殺害しようとの故意があったと認められる。

これに対し、弁護人は、Hが都知事は都政をめちゃくちゃにするから生きていてもらわなければならない旨言っていたこと、Hから殺傷能力を高めるために爆薬の中に金属片等を入れるかについて聞かれた際に、被告人が必要ないと答えていたこと、被告人はセキュリティーチェックで発見され、騒ぎになればよかったとも考えていたことなどからすれば、被告人には、都知事殺害の認識はなかったなどと主張する。

確かに、Hが右のような発言をしたことは認められる。しかし、被告人は、その後にHから、殺傷能力を高めるために爆弾の中に金属片等を入れるべきかを問いかけられており、その質問内容からすれば、Hが前記発言をした上でなお、都知事殺害の意図を有していたことは十分認識できるところである。そして、前記のような本件爆弾の想定される爆発態様等に照らすと、鉛玉等を入れないことにしたからといって、被告人らの殺意が否定されるものとはいえない。また、爆発前に発見されて騒ぎになればよく、都知事等の殺害を意図していなかったというのであれば、むしろ、本をくり抜くなどの巧妙で、かつ、配達途上はもとより投函にあたっても爆発の危険を懸念しないといけないような危険な仕掛けを施すことなく、茶封筒を開ければ爆弾と分かる物にすれば足り、あるいは少なくとも実際に通電しないよう措置しておいても足りたはずのものである。加えて、被告人は、本気であるという意識をみせる必要があった旨も供述しており(公判供述四五三八丁)、弁護人の主張を考慮しても、右殺意の認定は左右されない。

四  爆発物取締罰則の適用について

1 弁護人は、被告人には、本件爆弾が同罰則の適用を受ける程度の威力を有するとの認識はなく、同罰則の適用を受けない旨主張する。

しかし、これまで検討したところに照らせば、被告人は、本件爆弾が人を殺傷するに足る威力があることを認識していたと認められる。

2 また、弁護人は、被告人には、治安を妨げる目的も、都知事等の殺害目的もないから、同罰則の適用はないと主張する。

しかし、被告人らは、社会的な騒ぎを起こすために、敢えて要人を名宛人にしているところ、都知事に宛てて相当の殺傷能力がある巧妙な仕掛け爆弾が送り付けられれば、それ自体で、公共の秩序と安全が害されるといえる上、関係証拠から容易に推認される当時の世情に鑑みれば、そのことは一層明らかであるから、被告人も当然にこれを認識していたはずのものであって、被告人には治安を妨げる目的があったと認められる。また、前記のとおり、被告人に都知事等に対する殺意が認められる以上、人の身体又は財産を害する目的があったことは当然である。

3 よって、被告人には、爆発物取締罰則が適用される。

五  以上検討したところによれば、判示第一〇の一及び二の各事実は優に認定できる。

第八  責任能力及び期待可能性について

一  弁護人は、社会心理学者西田公昭(以下「西田」ともいう。)の鑑定書(職二一)及び同人の公判供述(以下、証拠となった同人の著作物(弁二一)等を含めて「西田鑑定」と総称する。)の信用性は高いとして、同鑑定内容等を援用しつつ、被告人は、本件各犯行当時、オウム真理教という極めて特殊な環境下にあり、解脱、悟りに至るためには最終的解脱者である乙川に絶対的に帰依し、功徳を積むことが必要と信じ込まされ、ハルマゲドンを回避し人類を救済するために、乙川から指示されて行う行為は、たとえそれが社会的に違法な行為であっても、「真理」からみれば「神々の意思」に基づく善行であると信じるよう、乙川にマインドコントロールされて心理的拘束を受けた状態にあり、また、乙川の指示に反することは悪業を積むことであり、地獄に堕ちると恐れていた上、指示に従わなければ、自らが乙川の命令でポアの名の下に殺害されるという現実的な恐怖の状況下にあったもので、適法行為に出る期待可能性がなかった旨主張し、特に落田事件における客観的状況の下では、乙川の指示・命令を拒否すれば自らが殺される現実的危険性が顕著であったと強調する。

確かに、本件各犯行に関与した者をみるに、いずれもオウム真理教の(元)信者であるが、被告人はひとまず措くとしても、学歴や知的能力が高く、相応の資質を備えていると思われる者が多く、それらの者が地下鉄サリン事件を頂点とする極めて残虐非道な計画的、組織的犯行に加担していることは、本件の大きな特徴というべきである。そこで、弁護人の所論に鑑み、被告人の刑事責任の有無、程度を判断するに必要な限度で、以下検討する。

二  まず、弁護人が主として依拠する西田鑑定(その信用性については、後記四以下に判断を示す。)によれば、そのほか浅見定雄の公判供述(以下、第五八回公判調書中の同人の供述部分を含んで「浅見供述」ともいう。)等の関係証拠をも適宜参酌すると、本件一連の犯行に関与するなどしたオウム真理教(元)信者らが、犯行に加担するように至っていく経緯、状況としては、およそ以下のようなところであるというのである。

1 オウム真理教に入信すると、信者は、ヨーガの修行を指示される。これを継続していくと、信者は神秘的な体験をする。その結果、乙川の指導どおりに修行することによって神秘体験が得られるという直接体験が、乙川に対する帰依の気持ちを強めることになる。

そして、この修行が厳しいものであれば、あるほど、信者は修行を完遂することに高い価値観を置き、結果として乙川に対する帰依を強めていく。

また、信者は、乙川がダライ・ラマやカール・リンポチェと交流する姿を見せられ、オウム真理教信者が増加していき、時として乙川が神秘的能力を持つとしか思われないような不思議な現象を目にしたことなどからも、乙川の偉大さを確信するようになる。

2 また、信者は、ヨーガの修行と併せて、記憶修習という修行を指示され、グルに帰依するという内容を、繰り返し繰り返し瞑想して頭にたたき込むことを求められ、それを続けるうちに、信者は、どのような情報が自己に与えられたとしても、それを繰り返し頭にたたき込まれた情報及びそれと関連付けられている情報で、自動的に解釈して処理するようになり、結局、信者は、乙川の指示やオウム真理教の教義を条件反射的に用いて意思決定するようになって、個人の自由な主体的思考、判断ができなくなっていく。

3 特に、乙川に深く帰依して出家した者は、それによって、社会から断絶するような環境に置かれる。物理的に、財産を失い、家族等から離れ、戻るべき場所をなくし、教団で生きるしかない状態になり、教団だけを頼るようになる。情報を管理され、一般社会の情報等に触れることを制限されて、教団以外の価値観と接することがなくなり、信者の意識の中心に教団の価値観が置かれるようになっていく。加えて、食事や睡眠を制限されて自由を拘束され、欲求を抑制された状態の中で生活を管理される。その結果、著しいストレスの下での生活により、思考能力を失っていくことになる。

このようにして、信者は社会性を喪失するに至るとともに、それまでの修行や体験を通じて、乙川の唱える教義の世界観が、現実のものと思うようになり、その世界観の中で思考、判断、行動していくようになる。

4 一方で、乙川は、解脱、悟りに達して人類を救済するという考え方により、信者に対して、自分たちは、選ばれた者で、非凡な才能を有する特別な存在であるという思いを抱かせ、これに反しオウム真理教に入信しない者は、愚かで哀れな存在であると考えさせるようにし、信者は、このような高慢な思いを修行をする中でどんどんと膨らまされていき、特に、出家して社会と断絶した信者は、教団内で、厳しい修行を課されることによって、より一層自分たちを特別の存在だと考え、現実社会に生きる人々を見下していくようになる。

5 加えて、乙川により、マハームドラーの修行が課される。

マハームドラーの修行は、グルである乙川が、弟子である信者の煩悩を見抜き、その煩悩の克服を目指させるため、さまざまな課題や試練を与えて、信者の煩悩を取り除き、解脱、悟りに導くものとされ、乙川から与えられる課題(いわゆるワーク)が理不尽と思われる無理難題であっても、何としてもグルの意思を実践することが求められる。そこでは信者は、与えられた課題が嫌なものや間違っていると感じるもので、その実行に心理的動揺を覚える場合であっても、それは最終解脱者である乙川が全てを見通して与えたものである以上、命じられたことを実践することが「神々の意思」に合致することであり、嫌だとか間違っていると思うこと自体が、自分の修行が足りず、なお世俗的な煩悩が残っているからだと考え、そのような気持ちを抱かないように自分の感情や内心の抵抗を抑え、無理やり納得させてでも内心の葛藤を乗り越えて、課題を達成していくように努める。この繰返しを行うことによって、信者は、乙川からの指示が反社会的行為であり、如何におかしいと思うものであったとしても、乙川に対する帰依を否定できない限り、神々の意思と信じ、正当な行為として実行するような心理的状況になっていく。

しかも、マハームドラーの修行が、解脱、悟りへの道であると位置付けられ、修行を達成すればステージが上がるとされていたことから、純粋に解脱、悟りを得たいと思う信者ほど、熱心にこのような修行に取り組むことになる。

乙川は、このマハームドラーの修行を、信者に休む間もなく与え続けて、肉体的、精神的に激しい疲労状態に陥れさせ、信者の思考能力はますます奪われ、信者は乙川の指示に服従せざるを得ないような心理状態に追い込まれていく。

6 マハームドラーの修行に取り組ませる際、乙川は、自己の煩悩、心の葛藤に苦しむ信者に、賞と罰を使い分けて接し、信者をより強くコントロールしようとする。すなわち、乙川は、信者が教義や乙川の指示に疑念を抱いたり、戒律を破ったり、与えられた課題を達成できない場合には、修行が足りないからであるとして、さらに厳しい修行や体罰を与え、その一方で、精神的なダメージを強く受けているとみた場合には、折に触れて直接電話をかけるなどして、その信者を高く評価しているとか、解脱、悟りに近づいているなどと思わせるような行動をとって、乙川に対する帰依を再認識させて、より強めていく。

7 さらに、乙川は、ハルマゲドンの思想を前面に押し出し、人類を救済するために残された時間があまりないということを強調し、信者は、常にワークを急がされ、心理的にも切迫感にとらわれて、ゆっくりと考える間もなく、ただ、ワークを達成することだけを考えるようにさせられていく。これによって信者の思考はますます乙川の指示を絶対視し、その命ずるところに自動的に服従し、従うようになっていく。

また、乙川は、教団が毒ガス攻撃を受けているなどと説き、オウム真理教が唯一、神々の意思の実現を目的としていることから、現代社会の勢力から宗教弾圧を受けていると繰り返し、信者に被害者意識を煽り、教団の正当性を植え付けていく。

8 信者は、以上のような経緯、状況に置かれた結果、乙川の指示が反社会的なものであっても、疑うことは未だ帰依や修行が足りず、また、理解できないのは、乙川の深い宗教性が自分には分からないからだなどと考えて、内心の疑念や抵抗、動揺を抑え込み、他方、グルである乙川の意思を実践することはヴァジラヤーナの教義に基づく救済のための手段であり、乙川の指示は反社会的なものであっても、神々の意思から見れば正しいことだなどと考えて、自己の行為を正当化して納得するように努め、乙川の指示に従って、犯罪行為にも加担するようになっていく。

三  右二の事情は、例えば被告人は自由に外部に出かけることができ、一般社会の情報が摂取できたこと(公判供述六九九二丁)など、個々の事項の有無やその程度についての差異こそあれ、概ね被告人にも当てはまるものとされる。

加えて、弁護人は、被告人固有の事情として、被告人が高校生の若さでオウム真理教に入信したこと、元から霊的能力や宗教に対する興味関心等が強かったこと、被告人の家庭での体験などの点がオウム真理教における被告人の心理的拘束に強い影響力を有していたと主張するので、被告人の供述、陳述書その他の関係証拠をも参酌しつつ、さらに被告人についての経緯、状況をみていくことにする。

1 被告人は、京都市内で生活する両親及び四歳年上の兄との四人家族であったが、会社員の父親は仕事が多忙で、出張などで家を空けることが多く、母親は病気がちであり、両親が、被告人の前でもよく衝突をし、喧嘩をするなどの様子を目にしていたが、幼稚園当時、母親が自殺をしようとして未遂に終わった事態を経験し、大きな衝撃を受け、幼いながらも、母親を心配し、母親から目を離すことに不安を覚えるようになった。このような家庭にあって、被告人は、両親に心から甘え、自己をぶつけるようなことはあまりなく、家庭にあっても、なお、どこかに安らぎを求め、家族との絆に負担を感じるようになっていた。また、父親との接触も少なく、父性としてのイメージが確立しない傾向があった。

2 被告人は、中学三年ころから、精神世界の書物に関心を向けるようになり、進んで、そのような本を読むようになった。また、小柄であったことから、強くなりたいと思い、武道を習い始めたが、武道と仏教に関連性があることを知り、宗教に関心を持つようになった。被告人は、本を読み、独学でヨーガの修行を行ってみたところ、本に書かれているような経験をしたことから、自分には霊的な能力があると思うようになり、一層宗教に興味を覚え、高校に進学するにあたっても、真言宗を基本とする学校を選択した。

この間、既に中学生時代から、被告人は、現代の社会に矛盾や疑問を抱き始めるようになり、密教の世界に関心と憧れを抱き、修行して解脱、悟りを得たいと強く願うようになった。そして、高校一年の時、阿含宗に入信したが、解脱、悟りに至るための具体的修行方法を求めても先送りされるばかりで示されないことなどから、物足りなさを覚えていた。そんな折、乙川の記事や著書に触れたことから、オウム真理教を知った。

3 オウム真理教では、具体的な修行方法が示され、それに従えば短期間で解脱、悟りが得られるとされており、被告人は、半ばいかがわしさを覚えながらも、実際にオウム真理教を自分の目で確かめてみようとして、入会のための資料を取り寄せ、高校二年の五月、軽い気持ちで入信した。

入信後、被告人は、教団から送られてくるテキストに従って、解脱のためのヨーガの修行に取り組んだところ、修行を続けるうちに、テキストに書かれたとおりの神秘的現象を体験した。これまでの知識で、解脱、悟りを得るには、独学は危険で指導者が絶対に必要だと信じていたこともあり、被告人は、徐々に乙川を信じるようになった。特に、被告人が四〇度の高熱を出した際に、教団の指示に従ってみると熱が下がったという経験をしたことから、乙川が本物の指導者ではないかと信じ始めた。

4 被告人は、同年夏に教団主催の丹沢セミナーに参加したところ、特段疑わしさを感じず、むしろ、その家庭的な雰囲気や解脱、悟りを目指す仲間といられることに魅力を感じ、初めて乙川にも会って、包容力のある人格や姿を見出して強く魅了されるとともに、乙川がシャクティパットで体調を崩してでも弟子に「気」と呼ぶエネルギーを与えるイニシエーションと称する行為を続ける姿勢を見るなどし、乙川が自分を捨てて人類を救済しようとしていると信じるようになり、乙川に「慈悲」の心を認めて強く惹かれ、グルと合一することにより短期間で解脱、悟りに至るという教えを一層信じ込み、修行者としての生活を送るべく出家を望むようになった。解脱、悟りに早く至りたいと焦る被告人は、熱心に修行に打ち込んで、乙川や年長者の指導をできる限り吸収しようと努め、これまで自分が持っていた価値観を捨て去るための、いわゆる「観念崩し」の修行にも励んだ。

翌昭和六二年には大阪に教団の支部道場が新しくできたが、被告人はその開設当初から熱心に通うなどして、一七歳の若さながら信者のサブリーダーとして支部活動にも積極的に参加し、高校三年の冬にはヨーガの指導をするインストラクターをしたり、特に選ばれて乙川一家と一緒にニューヨークへヨーガのデモンストレーションのため渡航するなどして、誇らしい気持ちになるとともに、教団内における自己の存在を認めるようになり、教団への評価を高め、その一員であることを強く意識し、容認していくようになった。

この間、教団は、乙川の絶対性を強調するようになり、「信」の実践と称して、信者は乙川の指示には言われたままに従うことが絶対に必要であるとされるようになっていた。被告人は、これに対して不安や反発心を覚えたものの、グルヨーガと呼ばれる修行を繰り返し行ったり、乙川から、セミナーで「なぜなぜ坊や」と皆の前で揶揄されるなどして恥をかかされ、挫折感を味わうとともにプライドを傷つけられたり、その後も乙川の意に沿わない行動をとるたびに帰依が足りないと叱咤されることなどを繰り返した結果、今後は二度と疑問を持たないようにしようと考え、乙川に対して深く帰依することが解脱、悟りへの道だと信じるようになった。

5 被告人は、昭和六三年高校卒業の直後に出家信者となり、親の強い勧めなどもあり、いったんは東京の大学に入学したものの、一年の夏休み前まで通っただけで中退し、その後は社会人としての経験も全くないままに、教団内で生活するようになった。

同年一一月、被告人は、極厳修行といわれるものを行いクンダリニー・ヨーガを成就したとされ、乙川からアーナンダのホーリーネームをもらい、師のステージを得、以後、自らは優れた存在であるとの自尊心を強め、マハームドラーの修行として与えられたものと理解していた各種のワークやオウム真理教の布教のための信者獲得活動に真剣に取り組んだ。

被告人の修行や教団内での活動振りは、周囲の信者らをして、「グルの意思を体現している方。グルの化身のようなイメージ。」「自分というものは無く、救済しかないというようなタイプ。」(公判供述一六九一丁)とか、「宗教的姿勢は頭が上がらないくらい真剣。」「彼の人生そのものが信仰にかかっている感じ。」(公判供述五〇三五丁)、「グルに対する非常に激しい帰依」(公判供述六〇〇三丁)などと言わしめるもので、極めて熱心な活動であった。被告人の影響で入信する信者も多くなり、強い自負心を持って活動を続け、教団内で「天才的修行者」などともてはやされ(弁一二、公判供述四八六七丁等)、自分には特別な能力があるという思いが強くなっていった。

6 平成二年二月、乙川が衆議院議員総選挙で落選し、ヴァジラヤーナの救済を唱えるようになり、被告人は、同年三、四月ころ、教団が細菌兵器を開発、使用しようとしていることを知るようになる。被告人は、このようなことをやってよいのかという不安や恐れを持ったものの、現代社会は堕落している社会であり、それを武力によって破壊し宇宙の秩序を取り戻すことが必要であるとの乙川の教えを戸惑いを覚えながらも信じ込もうとし、乙川の計画が多くの人の生命を奪うことになると分かっていても、乙川は自ら悪業を積んでカルマを背負ってまで慈悲を実践しようとしている、それを行うのが救済であり、絶対的真理からすれば神々の意思に基づく絶対的な善であると、自己の本音を抑え込み、グルの意思について考えてはいけないと自分を納得させ理解しようとした。

また、被告人は、乙川からより過酷なワークを次々と命じられ、精神的にも、肉体的にも休む間がない状態になっていったこともあり、乙川の指示をゆっくりと考えることをせずに、ひたすら命じられた目先のワークを達成することを第一に考え、動き回るようになっていった。

平成五年になると、被告人自身も炭疽菌の生成作業への従事を命じられるなど、本格的なヴァジラヤーナの実践という名目の違法活動に関わることになった。人を殺傷する細菌兵器を首都圏にばらまくという計画を知ってもなお、被告人は、これが神々の意思の実践であるから行わねばならないことだと信じながらも、一方で何も知らない信者も死んでしまうということを考えた時などには、不安と恐れが心の中に生じた。しかし、乙川に会ったときに、内心の動揺を見抜かれたように、乙川から何が起きても動揺しないようにと言われると、これ以上考えてはいけないんだと思い、現実感がなく、結果を推測することの困難さも手伝い、乙川の指示は神々の意思であると信じようとし、犯罪であることは十分認識していても、グルの意思の実現が解脱、悟りを得るために必要な修行で、功徳にもなることであると信じて、その指示に従って活動するようにしていた。

7 平成六年一月、被告人は、落田事件に関与するに至る。それまでも各種の違法行為を犯してきた被告人であるが、人が殺害される現場に立ち会うことは初めてであり、非常に強い衝撃を受け、動揺した。しかし、その一方で、乙川から、分かっているだろうけれどもポアなんだからと、直接くぎをさされるなどして、被告人は、考えると不安に襲われワークができない、ワークができないと乙川に叱られ、裏切り者だと見られたら怖い、だから考えないでいろいろと出てくる疑問や不安を振り切るために、目の前のワークに没頭しようという思考をするようになり、また、乙川が本当に殺害行為を行うことを認識し、自らも殺害行為に加担した以上、教団を離れて生きることはできないとも考えるようになった。

さらに、同年四月には、いわゆる恐怖の招集といわれる教団幹部を集めた会合の席上で、乙川から「戦いが始まったら、ティローパは真っ先に死んでもらう、二番目はラーフラ、三番目はアーナンダ(被告人のこと)だ。お前たちはこれから死んでもらう。抜け駆けはポアだ、アーナンダも例外ではない。」と言われ、被告人は、それまで、自分がポアの対象となることなど考えてもみなかったことから、名指しで裏切れば殺すと言明されて衝撃を受け、オウム真理教にいる限り大丈夫だが、裏切って下向したら殺されるとの恐怖にとらわれるようになるとともに、教団内にあっても乙川の意に沿わなければ本当に自分もポアの対象になると認識し、恐怖心を抑え込むように一層ワークに没頭していくように努めた。しかし、精神的に動揺していた被告人がワークをきちんとできなかったなどとして、同年五月には乙川から「どうしようもないやつだ。しっかり瞑想して、一度死ね。」と罵倒されて、二度にわたりいわゆるLSDを飲まされ、意識を失って死ぬのではないかと思うような経験をした。また、熱湯に入る温熱修行を課されたり、冨田やvが殺害されたことなどを聞き及んだ被告人は、乙川を裏切れば自分も殺害されるという恐怖感を現実のものとして強く意識するようになり、乙川の指示に服従するよう自らの心理的強制を強くしていったが、同時に乙川に対する帰依の程度と拡大する疑念の矛盾、あるいは恐怖で支配して強制しようとする乙川の意図に対する本質的な抵抗感も感じていた。

8 その後も、被告人は、乙川から、多くのワークを次々と与えられ、肉体的にも疲労の激しい状態に追い込まれていったが、そのような中で一層ワークに没入するように自らを駆り立て、VX事件、假谷拉致事件、アタッシュケース事件を経て、地下鉄サリン事件等へと続けざまに違法行為に加担していった。

四  以上の二及び三は、前示のとおり主として西田鑑定によるものであるが、弁護人は、同鑑定は合理的で信用性が高いとする。

後記五以下で検討するとおり、その最終的な結論部分の当否はともかくとして、西田鑑定が一般論として述べるところは、社会心理学の成果に基づき、オウム真理教における、いわゆるマインドコントロール的なものの実態(以下においては、このような趣旨で、弁護人の主張及びそれが依拠する西田鑑定にいうところのマインドコントロールを指すものとして、単に「マインドコントロール」という。)について詳細に説明するもので、個々の心理学現象の当てはめやコントロール下に置かれた者の心理状態について明快な分析が示されており、その内容は合理的で、特段不自然なところや客観的状況にそぐわないところは見当たらず、それとして十分理解できるものといえる。そして、その示すところは、類似した状況下にある多数の者に関わった豊富な経験を持つ浅見証人の実証的な分析や多数のオウム真理教(元)信者が自身の心理状態について述べる内容にもよく整合しており、オウム真理教におけるマインドコントロールの分析としては精確なものと評価できる。このことは、オウム真理教内にあった被告人の心理状態一般に関して述べるところも同様であり、個々的な場面における被告人の心理状態についても的確な分析がされており、その内容は合理的で、特段不自然な点はなく、関係証拠から認められるところの客観的状況に照らしても十分了解可能である。特に被告人が高校生の時からオウム真理教に入信し、相当年月にわたって同教団内での修行生活を続けるばかりで社会的経験に乏しいことや被告人が自ら供述する各時点における心理状態やそれぞれの時期における被告人の外形的状況について他の信者が述べるところにもよく適合している。

そして、以上の経緯、状況に加え、関係証拠や公判廷における被告人の供述態度等をも併せ鑑みると、被告人が、幼小のころから自己の内面をさらけ出してぶつけるようなことをあまりせず、父親に対する情愛にも満たされないものを有しており、解脱、悟りを求め自分と同じ目的を有する入信当時のオウム真理教の信者らとの関わりを持ち、乙川に父親には得られなかった感情を期待して入信したこと、入信以前から宗教に深い関心を示し、自分は霊的能力があり、修行者であるべきと考え、解脱、悟りに達することに強い欲求を持っていたこと、被告人が、元来真面目な性格で、その年齢なりに知的能力も高く、自尊心も強いことなどから、熱心に修行に取り組み、乙川の下で少しでも早く解脱、悟りの境地に達しようとしていたこと、他の教団幹部に比べて年齢が低いにもかかわらず、それなりの地位やステージを与えられ、周囲からもそのような目で見られ、教団に対する疑問などについて安心して心を打ち明け話せる友人も少なかったことなどの側面があり、被告人が各犯行に関わった経緯の中には、弁護人主張のような要素があったことも否定できない。もっとも、逆に被告人は、一般信者と異なり、乙川と直接会う機会も多く、間近にその実像や人柄を見るにつけ、同人に対する不信や疑念もしばしば抱いていたのであり、ことに平成六年以降はその疑問を拡大させていた経緯(公判調書六三五八丁等)も同時に認められるのである。

そうすると、問題は、右のような状況にあった被告人が、そのことによって責任能力や期待可能性がないとされるかである。

五  この点、西田鑑定は、前記のような経緯、状況を前提として、被告人の心理状態について、「オウム真理教において被告人が経験した状況は、いわゆるマインドコントロールの手法と一致し、被告人は、乙川やオウム真理教に隷属する立場にあったといえる。被告人は、このような状況において八年も生活してきた結果、自らの自己決定を放棄せざるを得ない状況になり、乙川によって被告人の行動は操られることになった」旨結論付けた上で、被告人は、本件各犯行当時、マインドコントロールによる強い心理的拘束を受け、個人の自己決定が有効に機能せず、支配者の指示・命令に服従する状態にあり、心神耗弱と類似の状況にあったとする(西田鑑定書、公判供述七〇二八丁)。

しかし、以下に検討するとおり、マインドコントロールの影響を理由に、直ちに各犯行時点における被告人の責任能力の著しい減退を認めることは相当とは思われない。

1  西田鑑定にいうところのマインドコントロールとは、その定義付けによれば「他者が自らの組織が抱く目的成就のために、本人が他者から影響を受けていることを知覚しない間に、一時的あるいは永続的に、個人の精神過程や行動に影響を及ぼし操作すること」というのであるが、端的には、ある特定の環境に個人を置き、その環境を操ることで、個人の意思や欲求に方向性を与え、個人の意思決定を組織の意図する方向内に自発的に制限するように仕向け、その者の思考過程や行動に影響を及ぼし操作するものと理解される。同鑑定によれば、当該個人は命じられた行為が違法なものである場合には、その違法性自体は十分認識し得るにもかかわらず、組織内の論理でそれを行うことを正当化し、自己説得して権威者の指示・命令に服従し、従うしかなくなるというのである。すなわち、マインドコントロール下にある個人は、支配者が指示した課題達成の枠内では自由な思考が自発的に働くが、支配者の指示を超えたり、指示に反する場合には、とたんに恐怖感が生じ、自由な思考が停止するという特徴を有しており、支配者の指示が、個人の良心の呵責にふれても、それを正当化するための自己説得をし、課題達成についてのみに反射的に思考を集中させ、思考能力はあっても、それを使ってはいけないと条件付けられる状況に置かれているので、課題達成の思考は働くものの、善悪の区別はしてはならないのであり、このような現象は、通常の精神医学で用いる精神(心神)耗弱とは異なるものの、犯行時の現象においては類似の結果となるという。

2  しかし、浅見証人がマインドコントロールは程度問題であり、情状酌量として考慮されると理解していたと述べる(公判供述五四〇一丁、五四二七丁)ように、西田鑑定に照らしても、もともとマインドコントロールによっても、「一〇〇パーセント完全にロボットのように人を動かすということは不可能で」あり(公判供述六九九七丁)、心理的拘束を受ける程度の軽重がある上、どの程度の割合で自己決定が働くかについて、客観的に診断することもできないのである(公判供述七〇二四丁)。

そして、社会内で生活し、日常的に他者と接触する個人はすべて何らかかの形で環境や他人からの心理的影響を受けているものであり、社会的に相当でない心理的影響やある程度の拘束を通常一般より強く受けているからといって、社会的秩序からの明らかな逸脱である犯罪を行った者に対して、それだけの理由をもって、心理的拘束の程度の差異を不問に付し、一律に刑事責任の低減を認めることはできないというべきである。

特に、本件においては、ある程度の心理的強制を受け、乙川やオウム真理教に服従するような状況に立ち至ったのは、被告人が前示のような動機で自らオウム真理教に入信し、少なくとも途中からは教団や乙川の唱える教義の著しい反社会性を十分承知できたにもかかわらず、被告人自身の判断と意思によって修行や教団活動を継続してきたことの結果である。そうすると、被告人は社会的には違法であることを認識できる十分な知的能力を持った上で、教団内にとどまり、自らの修行の進展や教団の教義、利益を優先させることを選択して、何ら関わりのない他者の生命、身体、財産等に対する明白な侵害である犯罪行為に加担したものであって、そのような自ら選択した結果として陥った状態の故をもって、その程度の軽重を問うことなく、犯罪行為に対する刑事責任の低減という形で、反射的にせよ利益を付与するに帰するようなことを、法が予定しているものとは到底思われない。

なお、この点について、弁護人は、被告人は一六歳でオウム真理教に入信したもので、その当時は教団が一般市民等を殺害するような行為に及ぶとは考えられなかったから、被告人自身の選択を非難することはできないと主張するが、前示のとおり、オウム真理教は徐々にその教義を変化させ、教団としての行動の反社会性を強めていき、遂に本件各犯行のような犯罪行為に及んだものであり、マインドコントロール的な心理的拘束の面をみても、一挙に違法な指示にすら抵抗することが困難な心理状態に陥ったのではなく、徐々に心理的拘束が強まっていく関係にあったものと認められるのであって、被告人は最初の入信時点だけでなく、本件各犯行に至るまでの間に、何回もそのような状況を踏まえて見直す契機があったというべきであるから、そのような途中の機会を無為に見過ごしたことからすると、必ずしも弁護人主張のとおりであるとはいうことができない。また、西田供述によれば、それほど簡単にやめられない(公判供述七〇一二丁)というのであるが、被告人が各犯行の度に遅疑逡巡している状況、教団から離れることを思いとどまった大きな要素として、逃げてもどこまでも行方を追及されるとの恐怖心があったこと(公判供述六三二一丁等)などに照らせば、それがマインドコントロールされた心理状態の故をもって絶対的に困難であったとまではみることはできない。

そうすると、もともと他者の存在により、あるいは特定の組織、団体の構成員であるということから、単独では到底できないような犯行への関与に及び、あるいはその程度を強める傾向は、一般的な共犯関係にもみられるところであり、マインドコントロールの影響下にあったことをもって、責任能力が軽減されるとするためには、その者が本来的には行為の善悪の判断自体を十分行い得るものである以上、それにもかかわらず善悪の区別を考えたり、あるいはその判断に従った行動をとることが、少なくともマインドコントロールされた状態にあったという理由から著しく困難であったことを要する筋合いのものである。すなわち、マインドコントロールの故をもって責任能力の著しい減退を認めるには、個人が強力な心理的拘束を受け、権威者の指示・命令に、そう命じられたという理由それだけから唯々諾々と従うような状態にあることを要すると解すべきである。

3  そこで、被告人の具体的な心理状態について、証拠に照らして検討するに、マインドコントロール的なものによる影響を受けた結果として、前記1のような傾向が被告人にも見受けられ、西田鑑定のように、被告人の心理状態が「自らの自己決定を放棄せざるを得ない状況になり、乙川によって被告人の行動は操られることになった」と、ある程度までは認められるとしても、それが絶対服従ないし乙川の指示に従わないことがおよそ不可能というべき段階にまで至っていたとは本件証拠からは認めることができない。

すなわち、被告人が個々の事件に関して、社会的ルールからの逸脱や行為の違法性を強く認識し、とりわけ殺人行為に関しては、自らの手で実行することに大きな抵抗を覚え、水野事件の第一回襲撃においては、他の要因もいくらかあるとはいえ、水野にVXをかけるに至らず、結局最終的に個人的な実行行為には及ぶに至らなかったことは、西田鑑定が述べるような経緯、状況の下にあってもなお、被告人が行為の違法性の大小や結果の重大性を被告人固有の意思で判断し、それに応じてその実行に関わることへの抵抗や躊躇を示し、現に乙川の指示や命令に絶対服従といいながらも、個人としての自己決定を行い得、かつ実際に行っていたことを示すものである(公判供述六四三二丁等)。また、例えば、地下鉄サリン事件に関しても、前示認定のとおり、乙川からは他の役割を与えられ、同時にいろいろなことを行おうとしても失敗するだけだから、被告人は関与するなと厳命されながら、何か役に立つかもしれない、何かあったらかわいそうだなどと考え、自ら積極的に犯行メンバーとされていた者に接触し、総指揮者であるDとも関わりを持つべく、自らそのもとへ出向き、さらに渋谷アジトへも出かけて行くなどしたことは、地下鉄サリン事件に対する関与についても、西田鑑定が述べるような乙川からの心理的影響、拘束の下とはいえ、被告人にはなお自己固有の意思により主体的に判断して決定し、行動する余地があったことを示すものというほかない。なお、西田は、右の被告人の行動は乙川の命令に反しないものである旨解釈している(公判供述七〇三六丁)が、同時に、乙川からもうするなと言われたときには本人はしないはずであるとしているところ(公判供述七〇三八丁)、被告人は、乙川からどうして勝手に動くのかと怒られた事情も認められるのであるから(乙A一〇等)、到底西田のようにみることはできない。また、被告人自身、落田事件に近い平成五年一二月ころ、教団を下向しようと考えたことがあったと述べており(公判供述六三三三丁)、その後にも同様の事情が見受けられる(公判供述六二六〇丁、六三〇七丁、六三二〇丁、六三八八丁)のであり、結局は脱会していないものの、乙川や教団に対する批判をし、内心で葛藤する状況下にあったことは、明らかである。

この点は、西田自身も、公判廷において、自己決定が有効に機能せず、支配者に服従するというのは、唯々諾々と服従するだけでなく、さまざまな葛藤がありながらも、支配者に従わざるを得ないというものも含まれるものであること(公判供述七〇八二丁)、被告人が、乙川の意思に拘束されている中でも、ポアについては完全には納得せず、まだ自分の避けようとする意思が結局働いていたこと(公判供述七〇四二丁、七〇七九丁)、乙川自身も被告人に対するコントロールが、反社会性の高い行為の実行犯として何でもやるところまでは、まだ足りないと思っていたのではないかと思われること(公判供述七〇八四丁)などを供述するところであり、被告人の心理状態は、絶対的な服従の程度にまでは達していない段階であったことを裏付けている。

ちなみに、右西田供述を敷衍すると、乙川から指示された違法行為に対して、被告人がその実行を瞬時躊躇することがあっても、それ以上動揺することは放棄し、神々の意思にかなうことだと自分を納得させて指示を受け入れ、これに従うように習慣付けられている場合をも含めて論じているものと理解される。しかし、被告人が、そのような状態にもなかったことは、前示したところや各犯行に関する被告人の供述中から認められる、個々の犯行に際して被告人が抱いた人間的な心情や犯行に対する疑念、さらに客観的にも現実に実行を躊躇するなどしていた状況が窺われることなどからも優に認められるところである。さらに、そのほか乙川からDを介して、自衛隊によるクーデターを起こす、これは神々の示唆であり、やらなければ教団が崩壊してしまうと、その実行方を指示された際に、本当に神々の意思かとの疑念がものすごく出てきて、そんなことは無茶です、できませんと明確に拒否し、乙川から直接何故やらないのかと問いただされながらも、これに応じようとしなかった経緯(乙E三、四、公判供述四五二七丁。kの公判供述一七一一丁)、同じく乙川から下向信者をポアしろと直接指示されたにもかかわらず、これに応じようとせず、再三乙川からその旨指示されたのに、従わなかったため、帰依がない、グルがポアしろと言ってるのに素直に従わないと罵倒された経緯やその後、別の人物に対する同様の指示を受けたものの、結局何も実行行為をしなかった経緯(乙F五、公判供述六三七六丁、六三七八丁以下、六五八〇丁)などにも照らすと、そのような習慣付けにより主体的思考や判断ができない状態にはなかったことが明らかである。なお、弁護人は、被告人が右のような疑念を持ったとする被告人自身の公判供述自体、そう思いたいとの心情から後から考え出したものであると主張するが、被告人が各犯行の場面やその前後に、人間的な感情、良心との抵触や葛藤にいろいろと悩んでいた状況は、M、CやTら被告人の周囲にいた関係者の供述からも明らかである。

加えて、西田鑑定によれば、被告人については、自らが殺害されるなどの危険性が現実的にあったことが、乙川に対するさらなる心理的拘束へ向かわせたとするところ、このことは被告人の供述からも認められ、同じく違法行為に関与した他の信者の証言にも同様の心理状態の表出がみられる。そうすると、違法であることを承知しながら、敢えてそのような行為に及んだ背景には、結局のところ、乙川の指示により「ポア」の名の下に殺害されるなどの教団によるさまざまな制裁を避けようとする自己保身という要素があったといわざるを得ない。また、被告人は、乙川の指示に反することは悪業であり、自己の未熟さ故に乙川に対する疑問が生じるもので、それは修行が足りないからと思い、より一層乙川に帰依しようとして拘束されていくというのであるが、それは突き詰めれば、乙川の指示に反すると自分自身の解脱、悟りが得られなくなることから乙川の指示に従おうという趣旨のものであり、結局は、自己の欲求の満足という要素があったものといえる。そうすると、このような自己の利益のためという動機、目的を背景として、違法行為を行うことを選択することは、その当否はともかく、それ自体として合理的な行動の一つとみられるのであり、このような事情で自らの判断と意思に基づき乙川の指示に従おうとしたものと捉えることができ、そうだとすれば、到底責任能力を軽減する特別の事情とは取り扱うことができない。

4  さらに、本件各犯行の経緯、具体的状況等をみると、まず、被告人がそれぞれの当時、精神の障害を有していなかったことは、関係証拠から明らかである。

また、各犯行の動機をみるに、落田事件及びその死体損壊においては、i'を教団施設から奪回しようとして教団施設に侵入した落田をそのまま帰すわけにはいかずに殺害を共謀し、実行にあたって、共犯者らが落田を押さえ付けるなどしているにもかかわらず、自分一人が加担しないわけにはいかないと思い実行行為に出、その後、落田事件の発覚を防ぐためにその死体を焼却したものであり、水野、濵口、永岡の各事件においては、教団にとって敵対する立場にある者を殺害しようとした乙川の指示を実行し、水野事件の第一回襲撃に失敗した被告人がそれを挽回しようとしたものであり、假谷事件においては、A3の居場所を聞き出すために逮捕監禁したもので、地下鉄サリン事件等他の事件においては、教団に対する警察の強制捜査をかく乱、妨害しようとし、あるいは、さらに乙川の逮捕を阻止しようとしたもので、被告人や教団が当時置かれていた状況からすると、いずれも十分了解可能である。

そして、各犯行の計画、準備状況、実行行為、犯行後の事情などの具体的状況をみるに、落田事件では、共謀にあたって、被告人は「人体実験をしたらいいのでないでしょうか。」などと実行方法について発言し、犯行後には、教団施設の外で待機していたiの父親に対して、嘘をついて犯行の発覚を防ぐような行動をとり、水野、濵口、永岡の各事件ではいずれも共犯者間で、役割を決め、下見を繰り返すなどの入念な準備をし、無線を携帯した上で有効な見張り場所を探したりし、假谷事件でも、同様に準備をし、犯行に使用する車を調達したり、レンタカーに残った証拠の隠滅を図ったりし、□□爆発事件等でも、役割分担を決め、下見をし、犯行後の逃走経路を検討するなどし、新宿青酸事件、都庁事件でも犯行方法を検討し、その実行計画に加わっており、いずれも緻密で合理的かつ合目的的な行動をとっている。地下鉄サリン事件においても同様であって、車の調達、アジトの提供、共犯者間の連絡など犯行に有効な行為を自らの主体的判断も含めて行い、手際の良い合目的的な行動に出ている。

そして、各犯行時において、被告人は、いずれもそれが違法な犯罪行為であるとの認識を有し、ときに犯行の遂行自体を躊躇すらしていたことは証拠上明らかである。

5  以上によれば、被告人が、自己の思考を完全に停止し、行為の善悪を判断できない状況には陥っていなかったことが認められ、また、行為の善悪を弁識し、それに従って行動する能力も十分有していたものと認められる。

六  弁護人は、被告人がマインドコントロールの影響下にあり、乙川の指示に反すれば地獄に堕ちると信じて、それを何よりも恐れていたことや乙川の指示に逆らえば裏切り者として殺される現実的危険があったことを理由に、被告人には適法行為を行う期待可能性がなかったとも主張する。

1 期待可能性の理論は、構成要件に該当する違法行為で、故意・過失、責任能力が認められ、加えて法の認める責任阻却事由がない場合であっても、その行為時の具体的事情を前提にすると当該違法行為を行わないことが期待できないようなときには、その行為を犯したことに対する責任を阻却するという趣旨のものであって、事柄の性質上、その適用は厳格に行われるべきであり、特殊な心理的影響を受けていたことを主要な理由とする本件にあっては、行為者本人の主観的心理状態だけをみて判断することは相当ではなく、客観的にみても当該行為が心理的に強制されて抵抗できない状況の下に行なわれた場合など、極めて例外的な場合に限定して認められるべきものである。

2 これを、被告人の本件各犯行当時における客観的状況についてみると、関係証拠からは、被告人の行った行為について、緊急事態ともいうべき極限的な客観的状況下にはなかったことが明らかである。

確かに、被告人が、乙川の指示に反することは、悪業を積むことであり、地獄に堕ちることだと信じ、輪廻転生を信じている被告人として、そのことを恐れていたことは認められる。また、前示のとおり、被告人は、落田事件に関与し、その後、平成六年四月、乙川から「戦いが始まったら、ティローパは真っ先に死んでもらう。二番目はラーフラ、三番目はアーナンダだ。アーナンダも例外ではない。」などと言われ、自分もポアされる可能性があることを感じ、さらに、乙川から「しっかり瞑想して、一度死ね。」と言われてLSDを飲むことを指示され、また、vが殺害されたことなどを知り、乙川の指示に従わなければ、ポアの名の下に殺害されるという現実的な恐怖感を一般的には抱くようになっていたことも認められる(公判供述六三一九ないし六三二八丁、乙A一八等)。

しかしながら、証拠上、落田事件の際の客観的状況を含む本件各犯行時における具体的状況をみる限り、被告人が、ポアなど自らの生命に対する切迫した現実的危険を感じるような状況は全くなく、乙川から指示に従わなければポアすると脅されたことすらないのである。現に乙川の直接の指示に反する結果となった水野事件の第一回襲撃の失敗を報告した時ですら、被告人に対してポアの話は出ていない。前記五3のとおり、乙川から直接指示された事項の実行をその面前で拒んだり、あるいは結局従わなかったりしたいくつかの事例についても同様である。まして、乙川の指示に従わない形で自ら進んで関与していった地下鉄サリン事件については、およそ弁護人の主張するような状況にないことは明らかである。さらに、被告人自身、公判廷において、落田事件などの犯行時において、犯行に加担しなければポアされるという具体的な意識はなかったとか、現実的な恐怖は考えなかったと供述しているところ、その信用性を疑うべき事情は見当たらない(公判供述六四三五丁、六四三七丁、七三二二丁、七三三三丁等)。

3 加えて、前記五で説示した点をも併せ考えると、本件各犯行当時、被告人自身の心理状態からして、主観的には乙川の指示に従うことなく違法行為を行わないことがそれなりに困難であった状況が認められるものの、被告人が絶対的な心理的強制下にあり、乙川の指示に否応なしに服従しなければならないような状況にあったものとは到底認められず、また、その際の客観的状況からすれば、なお、被告人には、各犯罪行為に出ないことを期待する余地があったと認められる。仮に一般通常人の立場から考えてみても、結論は同様である。

七 以上のとおりであって、被告人がオウム真理教の下において、乙川によって被告人の思考や行動をかなりの程度制約される状況にあったことは認められるとはいえ、被告人は、未だ完全に自己決定の余地を否定され、乙川に絶対服従する心理状態にまでは至っておらず、しかも、行為の違法性を十分に認識し得た以上、前述のような事情を前提として責任能力の軽減や期待可能性の欠如を認めることは、およそ相当でないといわなければならない。

しかし、本件各犯行時に、現に被告入の置かれていた状況及び心理状態は、被告人の量刑を決めるにあたっては、その量刑事情の一つとして考慮されるべきものである。

(法令の適用)<省略>

(量刑の理由)

一  本件は、オウム真理教の幹部であった被告人が、教団の代表者である乙川次郎や他の教団幹部らと共謀するなどして、無差別大量殺人を企て、朝の通勤時間帯を狙って首都東京の地下鉄内にサリンを撒布し、一二名を殺害し、一四名に傷害を負わせたが殺害するに至らなかった判示第八の殺人、殺人未遂(地下鉄サリン事件)、教団の施設内で信者を殺害した判示第一の殺人(落田事件)、教団に敵対すると考えられた三名の者をVXを用いて殺害しようとし、一名を殺害し、二名に重傷を負わせた判示第二ないし第四の殺人、殺人未遂(水野、濵口、永岡事件、総称してVX事件)、教団から離脱するため身を隠した女性信者の実兄を不法に逮捕監禁し、死亡した同人の遺体を焼却して死体を損壊した判示第五、第六の逮捕監禁、死体損壊(假谷事件)、マンションに爆弾を仕掛けて爆発させた判示第七の一の爆発物取締罰則違反(□□爆発事件)、教団のビルに火炎瓶を投てきした判示第七のこの火炎びんの使用等の処罰に関する法律違反(火炎瓶事件)、新宿駅地下道の公衆便所内に青酸ガス発生装置を設置し、利用者等の殺害を企てたが未遂に終わった判示第九の殺人未遂(新宿青酸事件)及び爆弾を製造して東京都知事宛に郵送し、都庁職員に重傷を負わせた判示第一〇の一、二の爆発物取締罰則違反、殺人未遂(都庁事件)の各事案である。

本件各犯行は、教団に宗教弾圧を仕掛ける社会や国家権力に対抗するためには、教団の武力化が必要であると説いて武装化を推進し、反社会性の強い武装集団としての危険な性格を強め、殺人でさえも悪業を積む者の魂を救済することになるなどとの特異な教義を唱えていた教団組織を背景にして、オウム真理教の多数の信者(落田事件のiは元信者)らが、教団代表者である乙川の直接の指示、あるいは、その意思を推し量った上で行った組織的、計画的犯行である。乙川は、オウム真理教や乙川を信じ、それに従うことで信者が解脱、悟りに至ることが、終局的には人類の救済になり、そのためには、殺人等の違法行為も許され、しかも、悪業を積む者は、乙川の意思により殺害されることによって来世で高い世界に転生させられ、その者自身も救済されるなどとして違法行為を正当化する独善的で甚だ危険な教義を展開し、近い将来のハルマゲドンから人類を救済するには急がなければならないなどと信者を煽り立て、さらに修行と称して違法薬物を使用させるなどして信仰心を強めさせていたのであり、本件各犯行は、その結果、信者らによって敢行されたものである。いずれの犯行も、結局は乙川個人や教団の利益、存続のためだけに、社会秩序や何ものにもかえがたい他者の尊い生命などを一顧だにせず、手段を選ばず犯された独善的犯行というほかなく、その態様は、反社会性が極めて高く、残虐かつ非道なもので、生じた結果はそれぞれに甚だ重大である。本件各犯行は、オウム真理教による一連の犯行として、世間の耳目を集め、国民の不安を招くなど社会的にも甚大な悪影響を及ぼした。加えて、これらの犯行の大半が、現代社会の矛盾や人生におけるさまざまな疑問に悩む通常の存在であるはずの者たちに、解脱や人類の救済という一見魅力的な大義名分を掲げて乙川に対する信仰心を煽り、その結果、乙川やその教義を信じて帰依した信者らの手によって、宗教の名の下に教義の実践と称して犯されたことは、およそ被害者らの生命、人権を全く無視し、愚弄するものであり、その悪質性は類を見ないというべきである。

二  以下、個々の犯罪について、犯情を順次みていく。

1  地下鉄サリン事件は、量刑上最も重要であるところ、松本サリン事件や假谷事件が教団の犯行であると警察に疑われ、教団施設等に対する強制捜査が来ることをおそれた乙川と教団幹部らが、強制捜査を阻止するため、首都中心部を大混乱に陥れるべく、無差別テロを敢行しようと企て、平日朝の通勤時間帯を狙って、東京都内を走る複数の地下鉄路線を運行する混雑した五本の電車内において、予め時間を打ち合せてほぼ同時に、化学兵器であるサリンを撒布し、教団とは無関係の乗客や救護等に向かった地下鉄職員ら一二名を殺害し、さらに、一四名に重軽傷を負わせて殺害の目的を遂げなかったというものである。

その動機は、教団の利益のためならば手段を選ばず、多くの者の生命、尊厳を無視しきった極めて自己中心的で反社会性の強い悪辣なものである上、強制捜査を阻止するために無差別、大量殺人を敢行しようとの発想自体が狂信的かつ独善的というほかない。

本件で撒布されたサリンは、わずかの量で人の神経伝達機能を破壊する化学兵器である猛毒神経ガスで、その殺傷能力は極めて高いところ、教団の組織力や経済力を基に、高度の専門知識を用いて教団内で生成されたものである。そして、犯行の企図から実行まで約二日間という短期間に、犯行に及ぶ時刻や乗車車両などの詳細、サリンの撒布方法、実行役や実行役を運ぶ運転者の役割分担等につき謀議が重ねられ、犯行に用いる自動車や変装用衣類等を調達し、サリン撒布の予行演習や現場の下見をするなど周到な準備がされており、本件は、高度な組織性、計画性の下に、それぞれが自己に課された分担行為を着実に実行することで、同時多発的な大量殺人を敢行した、まことに残虐卑劣で非人道的な犯行である。

犯行の結果は、一二名が死亡し、一四名がサリン中毒症の傷害を負い、そのうち二名は重篤な後遺症を残すという極めて悲惨かつ重大深刻なものである。被害者は、いずれも、たまたま通勤途中に地下鉄の車内に乗り合わせたにすぎない乗客や突然の騒ぎで乗客らの救護を尽くそうとした駅構内の職員らであり、もとより何らの落ち度はなく、教団とは全く無関係の普通の市民であるにもかかわらず、突如として教団からの攻撃対象とされ理不尽かつ冷酷な犯行に巻き込まれ、その犠牲になったものである。そして、死亡した被害者は、いずれも、サリンを吸入したことすら分からずに原因不明のまま、激しい苦悶の中で意識を失って倒れ、その後意識を回復して家族に何の言葉を残すことすらできずに絶命したのであり、その苦痛、恐怖の大きさは言を俟たず、無残にも尊い生命を奪われた無念もまた筆舌に尽くし難いものがあると察せられる。幸いにして一命を取り留めることができた被害者の中には、重篤な後遺症に陥っている者もおり、その被害者は回復の見込みも立たず、今なお被害に遭う前の健康な生活に戻ることができずに悲惨な闘病生活を強いられているのであって、その苦悩、無念さは、死亡した被害者に比肩するものである。また、社会生活に復帰できた被害者にあっても、回復までにはサリン中毒症による死の危険に怯え、苦悶の期間を過ごしてきたのであり、その間の苦痛、負担もまた大きく、なお精神的苦痛にさらされている者も多い。さらに、予期せぬ事態にして突然家族の一員を失い、それまでの生活を奪われた遺族の悲嘆、衝撃、絶望、怒りの深さ、大きさには察するに余りあるものがある。遺族らは、何の関わりもないのに無差別テロの犠牲にあったことを憤り、嘆き、悲しみと絶望から心身疲弊して体調を崩し、あるいは病床に伏し、さらには生まれてきた子供に一度も父親のぬくもりを感じさせてあげることもできない悲しみの中で懸命に生きていこうとするなど、さまざまに苦悩する状態に追い込まれているのであって、今なお悲しみや苦しみは深く残り、その状況は悲惨というほかない。その余の家族の負った悲しみ、苦しみもまた計り知れない。被害者や遺族、関係者の多くが、被告人を含む地下鉄サリン事件の犯人全員に対し、極刑を強く望むことはまことに当然のことである。

加えて、被害現場となった車内や駅構内及びその近辺は、痙撃を起こす者、口から泡を吹く者、吐き気や頭痛等で苦悶する者などが続出し、数多くの人々が救急車で病院に搬送されるなどの凄惨な状況と化し、首都の中心部の機能が一時的に停止するほどの混乱の巷と化したのであり、一般市民までを恐怖におののかせ、無差別テロに対する不安を煽り立てた本件犯行は、我が国の治安に対する信頼を根本から揺るがすものとして社会に与えた衝撃は極めて大きい。

そして、被告人は、乙川との間で、地下鉄にサリンを撒く話が初めて出たリムジン内の会話に加わり、乙川に対してサリンの使用を示唆し、本件の実行が決められるやTやOと本件の実行方法などにつき相談した上、Dの部屋に行って、具体的実行方法を決めているDらに地下鉄に関する情報を提供して意見を述べ、犯行の際に実行役が乗降する駅や決行時刻の決定に加わって、Dらとの共謀を遂げ、さらに、Dとともに乙川の部屋に行き、乙川から運転者役の指名や実行役との組合せに関する指示を聞くなどし、Dの指示を受けて、実行役らの集合場所として渋谷アジトを提供し、実行役を運ぶ車五台を調達するなどした。加えて、今川アジトで、Tに右組合せ等を伝え、渋谷アジトへの移動を指示し、渋谷アジトにおいても、実行役と運転者役が全員集まったところで、右組合せの指示を伝達し、犯行についての確認をし、携帯電話の番号を教えるなどしてその会議の中心になった。また、電車内でサリンの入った袋を突き刺すのに使用する傘を購入し、その先を削る際には、傘を押さえるなどして手伝い、犯行時には渋谷アジトで待機し、犯行後は、証拠隠滅のために、犯行に使用した衣類や傘などの処分にあたった。被告人は、以上のような行為を通じて、本件にとって重要な後方支援あるいは連絡調整的役割を果たし、現に、犯行の遂行実現を円滑にし、罪証隠滅を行ったものである。しかも、被告人は、当時、□□爆発事件等の実行を任されていたにもかかわらず、本件犯行にも、自らの意思で積極的に加担したのであるから、その責任はまことに重大である。

2  落田事件は、教団を脱会した元信者であるiと被害者が、夜間教団施設内に侵入し、iの母親を連れ出そうとして捕えられたことから、教団に対して敵対行為をとったとみなされた両名の処分について、乙川が、教団幹部らの意見を聞くなどした結果、iをして被害者を殺害させることが教団の教義にかなうとし、乙川、教団幹部ら及びその場で強い心理的圧迫を受けたiの共謀により行われたもので、到底受け入れられない教団独自の論理に基づく乙川を中心とする私的制裁としての犯行であって、その動機は、独善的で反社会性が強く、酌量の余地は全くない上、組織的かつ陰湿で悪質な犯行である。犯行の態様は、被害者が教団施設に侵入した際に、取り押さえにかかった信者らに催涙スプレーを噴きかけたことから、被害者に対しても、頭部にビニール袋を被せ、その中に催涙スプレーを噴射するなどし、苦しみの悲鳴をあげ、必死に抵抗し続ける被害者の身体をその背後から羽交い締めするなどして多数の教団幹部が押さえ付け、その頸部にロープを巻いて強く執拗に締め付け、窒息死させたもので、まことに残忍かつ冷酷である。

本件犯行の結果、被害者は、乙川や多数の教団幹部に囲まれ、間近な死の恐怖に怯え、多大な苦痛に曝された挙げ句に、その生命を無残にも奪われたのであり、結果は極めて重大というほかない。二九歳の若さで死を迎えざるを得なかった被害者の恐怖や無念は想像を絶するものがあり、被告人らの無慈悲な犯行により一人息子を奪われてしまい、残された母親の悲嘆も察するに余りある。しかも、本件犯行後、被害者の遺体は、マイクロ波加熱装置で焼却された結果、遺骨すらも残っていないのであって、犯行後の事情も悪い。

被告人は、iと被害者が教団施設に侵入し、催涙ガスを噴射するなどし、取り押さえられたことを知って、わざわざ乙川に報告した上、自らの意思で被害者らが連行された場所に赴き、乙川から被害者らの処分をどうするかを聞かれた際には、他の教団幹部と共に殺害に賛同する方向の意見を述べ、さらに、乙川がiをして被害者を殺害させようとしている状況を認識しながら、犯行現場にとどまり、遂には、頸部をロープで締め付けられるなどして暴れる被害者の足首を両手で押さえ付ける行為に自ら出ており、このような行為に及んだ被告人の責任は重い。

3  VX事件は、教団幹部を含む信者らが、乙川の指示の下に共謀して、化学兵器に使用されるという毒性の極めて強いVX溶液を手段に用いて、わずか一か月余りの間に連続して三名を殺害しようとしたものである。

本件各犯行の動機は、乙川が、被害者らの行動により、教団活動が妨げられ、ひいては、自己の絶対性が批判されると考え、その者らを抹殺しようとしたものであり、甚だ短絡的かつ独善的なもので、およそ教団の利益のためには他者の生命など意に介さないという危険な体質が如実に現れており、その反社会性は顕著である。また、VXは、微量でも人の神経伝達機能に障害を与えて死に至らしめることが可能な神経剤であり、このように毒性が非常に強いVX溶液を、教団内で生成して使用し、事前に被害者の行動等を調査したり、下見を繰り返すなどした上、犯行場所、方法等を綿密に検討し、VX溶液を被害者にかける実行役、その補助役、見張り役等の役割分担を決め、周到な準備をした上で、次々と実行行為を敢行した本件各犯行の態様は、顕著な組織性、計画性が認められるまことに凶悪かつ危険なもので、悪質というほかない。そして、本件各犯行の具体的な実行態様も、補助役を伴った上で実行役が気付かれないように背後から被害者に接近し、注射器に入ったVX溶液を被害者の後頸部等にかけてそのまま逃走するという巧妙なもので、特に水野事件においては、襲撃に失敗した後もなお、繰り返し犯行を敢行したもので、強固な意思が窺われる執拗な犯行である。

そして、本件各犯行の結果は、濵口事件においては被害者を殺害し、水野、永岡事件においては、被害者を殺害するには至らなかったものの、それぞれ約二か月の加療期間を要し、一時は生命の危険が危ぶまれるほどの重篤な傷害を負わせたもので、まことに重大である。被害者らは、いずれも何らの落ち度もないのに、突然路上で襲われ、殺害され、あるいは重傷を負わされているのである。殺害された被害者は、公安のスパイであると決めつけられて教団の標的にされ、理不尽にもVX中毒により二八歳という若さで生命を絶たれたのであって、その無念さや死に至る間に味わった苦しみは筆舌に尽くし難いものと察せられる。残された遺族の悲しみ、怒りは大きく、被告人に対して死をもって償ってもらいたいと述べるのももっともなところであり、その心情は十分に理解できる。また、他の被害者は、幸いにも一命を取り留めたものの、長期間の入院、加療を強いられており、味わった苦痛も大きい。

被告人は、自ら水野にVXをかけようとしたものの失敗に終わった経緯を経ているにもかかわらず、なお、乙川から直接、あるいはGを通じて本件各犯行を指示され、乙川の意思を十分に認識した上で、犯行に加担し、さらに諜報省の部下であった者たちを犯行に加担させ、自らは、いずれの犯行においても、Gを補佐するなどして、犯行計画についての謀議の中心者の一人となり、下見をしたり、現場において、被害者の動静を監視したり、周囲の状況を窺うなどの役割を担い、犯行の遂行に当たって重要な役割を果たしたものということができる。しかも、被告人は、永岡がオウム真理教被害者の会の会長であり、教団にとって敵対する人物であることは認識していたものの、水野、濵口については、何故に殺害の対象となるのかについての事情を必ずしも深く知ることなく、乙川の指示に従って積極的に犯行に加担しているのである。本件各犯行における被告人の責任は、非常に重いといわなければならない。

4  假谷事件は、全財産の寄付を迫られ、教団から離脱するため身を隠した女性信者の居場所を聞き出そうと、その実兄である被害者を東京都内で拉致し、全身麻酔薬を投与して意識を失わせ、途中、別の車に乗せ替え、さらに全身麻酔薬の投与を継続しながら山梨県上九一色村の教団施設内まで連行するなどして、約一八時間余にわたって逮捕監禁し、次いで教団施設内で不慮の死を遂げた被害者の死体を、証拠隠滅のためマイクロ波加熱装置を使用して焼却したというものである。

被害者の妹の財産目当てに行った逮捕監禁の目的に酌量の余地は全くなく、実行に当たり予め車を準備し、運転手役、車内への拉致行為の担当役、薬物の注射役等の役割分担を決め、携帯無線機で相互に連絡を取り合うなどして敢行された組織的、計画的犯行である上、その態様は、人通りも多くなる夕刻の都心部の表通りに車を停めて被害者を待ち受け、人目を憚らずに、数名がかりで車内に無理矢理押し込み、過量の薬品を投与しながら長時間にわたって監禁したものであり、まことに傍若無人で大胆かつ凶悪な犯行というほかない。妹に協力しようとしていた被害者は、教団の不当な攻撃を恐れる最中、理不尽にも路上で強引に拉致されたものであって、被害者の受けた衝撃や精神的、肉体的苦痛が多大なものであったことは推測するに難くない。被害者がその後、完全に意識を回復することもないまま、教団施設内で家族との再会も果たせずに死亡するに至ったことも、その点についてまで被告人の行為の刑事責任を問うわけではないものの、量刑にあたっては斟酌してよい事情というべきである。

また、被害者の遺体を、教団による凶悪な犯行の証拠隠滅のため、一片すら残さず焼却した死体損壊の犯行は、死者の尊厳を全く無視した悪質な犯行である。遺骨さえ帰ることが許されず、対面もできないままに別れざるを得なかった被害者の遺族が、被害者は教団によって殺害されたと捉えて、厳重な処罰を望む気持ちはよく理解できる。

被告人は、被害者の妹のお布施や出家の勧誘、さらには同女が行方をくらますに至った経緯等については関与していないものの、本件が乙川に報告、相談された場に同席し、乙川から共犯者のMを手伝うように指示されて犯行に加担し、自己の部下を犯行に加えた上、被害者の拉致に当たっての役割分担を決めるなど、犯行の実行に際しては共犯者中でその中心の一人となり、現場においては周囲の状況を観察し、場合によっては中止命令を出す役割を負い、また、被害者を上九まで運搬する車両を調達し、拉致に使用した車の洗車に立ち会い、さらに、死体損壊にも加担したものであり、被告人が犯行主導者の一員として果たした役割は重要なものであったことが明らかである。被告人の責任は大きい。

5  □□爆発事件及び火炎瓶事件は、教団に対する世間の同情を買い、教団に対する強制捜査をかく乱しようとして、乙川の指示の下、地下鉄サリン事件を敢行するに先立つ時期を狙って、教団に好意的と言われていた宗教学者がかつて居住していたマンションの玄関出入口に爆弾を仕掛けて爆発させ、引き続いて、教団が道場を置くビル内にある教団経営の店舗に火炎瓶を投てきしたものである。いずれも、下見をし、役割分担を決めて、逃走経路を確保するなど綿密な打合せと準備をした上での犯行であり、計画的、組織的犯行であるとともに、その動機、目的は極めて自己中心的で身勝手なもので、右学者が居住していない形跡があるのに、なお敢行されたことをも考えると、厳しい非難を免れない。□□爆発事件について使用された爆発物は、信者が本件のために製作したもので、合計約1.8ないし二キログラムの黒色火薬が使用され、マンション玄関ドアのガラスを破壊するに足る威力を待っており、本件犯行時刻が住宅街にあるマンションとしては人が出入りする可能性の高い休日の午後七時過ぎということに照らすと、多大な被害を生ぜしめた可能性は高く、幸いにも、結果的に人の身体に対する被害が生じなかったとはいえ、極めて危険かつ悪質な犯行である。本件マンションに爆発物が仕掛けられたことは、当該マンションの住人だけでなく、周辺の住宅街の住民にも大きな不安を与えており、その悪影響は大きい。また、火炎瓶事件についても、都内の中心地にあるビル内に火炎瓶が投げ込まれたことによる周辺への影響は軽視できない。

被告人は、乙川らとの間で自作自演的な犯罪を犯すことが話題になったリムジン内に同乗し、本件について積極的な発言をし、その後、本件の実行責任者として遂行を指示され、実行に当たる共犯者を加担させ、特に□□爆発事件においては、自らの手で爆発物をマンションの玄関出入口に設置したのであって、犯行の実行責任者かつ主導者として強い非難を受けてしかるべきものである。被告人の責任は重大である。

6  新宿青酸事件及び都庁事件は、地下鉄サリン事件後、教団施設が警察による捜索を受け、信者らに逮捕者が出て、乙川の逮捕が現実化しつつある状況の下、捜査をかく乱し、乙川の逮捕を阻止するため、定期的に大規模な事件を起こせとの乙川の命令に基づき、教団幹部らが、時間的に実現可能な具体的方策を模索した結果、具体化されて連続的に敢行したものである。

いずれも地下鉄サリン事件で多くの犠牲者が出たことに全く思いを至らせることなく、専ら乙川や教団の利益だけを図り、社会の秩序、治安や他者の生命、人権を無視して犯した非人道的で無謀かつ悪辣な犯行というほかない。地下鉄サリン事件からわずか一か月余りで、その衝撃がさめやらぬ間に、本件が連続して敢行されたことで、社会不安を一層増大させ、国民に底知れぬ恐怖心を与えた影響はまことに大きい。

新宿青酸事件は、時限式青酸ガス発生装置を製作し、周到に下見をして、清掃の時間等を確認し、役割分担をするなどした上で、二度の失敗にも断念することなく敢行された計画的かつ執拗な犯行で、その態様は、新宿駅地下道にある公衆便所に、利用客の多いことが予想される祝日の夕刻、数千人を殺傷できる可能性を有する装置を仕掛けるというもので、幸運にも惨事には至らず、死傷者も出なかったものの、非常に危険性の高い卑劣かつ凶悪な犯行である。

都庁事件は、世界都市博覧会中止等の政策で世間の耳目を集めていた青島都知事宛てに爆弾を送付して都知事らを殺害しようと考え、当時製造可能で爆発力の大きいRDXを使用して書籍を模した爆発物を製造し、同知事と対立する都議会議員からの郵便物を装って都知事公館に郵送したものであり、極めて危険性が高く、冷酷かつ凶悪な犯行である。職務中にそれと知らず開披して、何らの落ち度もないのに、一瞬にして爆風に包まれ、生命に別状はなかったとはいえ、左手の全指及び右手親指を失うなどの重傷を負わされた被害者が、その際に受けた苦痛、恐怖はいうに及ばず、その後、二度の手術を受けたものの、日常生活に人の手を借りなければならない事態を生涯強いられるに至ったその肉体的、精神的苦痛は計り知れない。被害者の強い憤りや被告人に対して厳正処罰を求める心情は、まことによく理解できる。

被告人は、地下鉄サリン事件の後、乙川から、四月三〇日までに大きな事件を起こし、その後も三〇日ごとに事件を起こすようにと指示され、自らは、逮捕状が出ていたために、アジトから出られず、下見や実行行為を分担することこそなかったものの、乙川の指示を実現しようとして、他の教団幹部らと具体的方策を検討し、意見を述べるなどして、それぞれの遂行に主体的、実質的に加担したものであり、その責任は十分に重い。

三  以上のように、本件各犯行は、そのほとんどが罪質自体が重く、また、いずれも、組織性、計画性が高い犯行で、独善的かつ反社会的な動機及び目的を有し、犯行態様をみても甚だ危険かつ悪質なものであって、生じた結果は極めて重大であり、社会に与えた悪影響も甚大である上、被害者らの処罰感情は極めて厳しい。そして、被告人は、教団幹部として、これら多くの犯罪に加担し、それぞれに共同正犯あるいは共謀共同正犯の責任を負うものであるから、被告人の刑事責任はまことに重大である。

ところで、死刑制度が憲法三六条の規定に違反しないことは、最高裁判所の判例(昭和二三年三月一二日大法廷判決刑集二巻三号一九一頁等)であり、当裁判所もこれと見解を同じくするものであるが、死刑は、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責がまことに重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合に、その選択が許される究極の刑であり、これを科するには慎重を期すことが必要である。

そして、弁護人は、被告人の刑事責任が極めて重大であるとしても、なお被告人には斟酌すべき有利な情状があり、死刑は相当でないと主張する。そこで、以下、弁護人が主張する点に照らし、被告人の個別的な事情について検討する。

四  まず、弁護人は、被告人が、公判開始前の段階において、捜査官に未だ知られていなかった地下鉄サリン事件に関するリムジン内の具体的状況について、自ら進んで明らかにする供述をし、そのことは、その後の地下鉄サリン事件関係者の公判に大きく貢献しており、自首に該当し、あるいは自首に準じて斟酌されるべきとする。

しかし、この供述がなされたのは、平成七年一〇月二三日(乙A一七)であるところ、その段階では、地下鉄サリン事件がオウム真理教を背景とした犯行であることは、捜査機関に既に発覚していたことが証拠上明らかである。しかも、同年六月五日には、共犯者とされるKが、リムジン内で、乙川からサリンを造れるかと聞かれた旨供述しており(甲A一二〇四七)、リムジン内でサリンの話が出ていたことについても捜査官らは知っていたのであるから、被告人に自首が成立するものではないし、それと同視することもできない。

五  次に、弁護人は、被告人が、本件各犯行について、いずれも狭義の実行行為を行っておらず、地下鉄サリン事件においては、検察官が主張するような実行を指揮する地位にあったものではないと主張する。

そこで、被告人の各犯行における行為、役割等について、これまで認定説示してきたところを踏まえて、詳細にみていくこととする。

1(一)  まず、地下鉄サリン事件について、本件の首謀者が乙川、総指揮者がDであること、被告人が、共謀共同正犯であり、本件につき直接(狭義)の実行行為(以下、この趣旨で単に「実行行為」という。)を行っていないことは明らかである。そして、被告人が、検察官の主張するような強力な指揮権を有し、現場で指揮をとったいわゆる現場指揮者とは認められず、その行った行為が、客観的には、後方支援あるいは連絡調整役程度であったことは、前記認定(第五、五2)のとおりであるが、被告人が、そのような役割のものとして多くの行動をとり、本件に深く関与していることもまた、前記に認定したとおりである。

ところで、本件は、省庁制やステージ制を採用し階級性を重んじる教団を背景に多数の者が関与した組織的犯行で、乙川らの指示が実行役に伝達され、実行役が実行に及ぶという構造で敢行されたものであることを考えると、実行行為をしていない被告人の責任の程度を判断するにおいては、被告人の行為、役割が、本件首謀者らである乙川、Dという重要事項についての意思決定者すなわち実行役の上位にあって指示命令を下す者らに属し、あるいは、それに付随するものであるか、それ以外の範疇にあるものかが重要な意味を有すると思われる。

そこで、被告人の行った行為について、このような観点から、さらに検討していくことにする。

(二)(1)  まず、被告人が、リムジン内でサリンの使用を示唆したことが本件の契機になり、乙川の決定に影響を及ぼしたものと窺え、このような被告人の安易な発言は強い非難を免れない。

しかし、被告人は、その後直ちに、むしろ硫酸の使用方を示唆するなどして、乙川にはね付けられていること、被告人が本件にリムジン内会話の段階から関わり、右のような発言をしたとしても、それは、本件の実行が決定される以前の時点におけることであり、本件はその後の乙川、あるいは、乙川及びDらによる意思決定に基づき、計画、実行されたものであると窺われること、被告人はその後に共謀関係に入っていることなどからすると、被告人のリムジン内での言動をもって、被告人が、本件の意思決定を行ったなどとし、本件での役割として過大に評価することはできない。

(2) 被告人は、本件犯行が準備されている間に、乙川に二度直接会って、話をしている。実行メンバーの中で、直接乙川から指示を受け、あるいは乙川と直接会って話をした者は見当たらないことからすると、被告人は、実行役以上に密接に乙川に接していることになる。

しかし、平成七年三月一九日午後に乙川の部屋を訪ねたのは、別件の□□爆発事件の爆弾を受け取るためにDに会った際に、来ないかと誘われたことがきっかけであり、その際の状況からしても、Dは、運転者を誰にするかや実行役との組合せについて、乙川が出した結論を聞きに行ったものとみられ、この場において、被告人が乙川やDと犯行について決定をした具体的事項はなく、そのような意図があったとも窺えない。

なお、この折に、被告人は、乙川から今回はやめるかと問いかけられて、尊師の意思に従いますと答えており、被告人が本件実行の決定に意見を述べ得る地位にいたようにもみえる。しかし、被告人の発言は、それ自体として自らの意見を留保し、乙川に決定を委ねた趣旨のものである。そして、乙川の発言の意図は、被告人に対しては本件前に実行される予定の□□爆発事件等について言及したもので、地下鉄サリン事件に関する限り、むしろ、Dに対して、実行をしっかりやるように、敢えて被告人の名をあげて叱咤したものと受け止めたという被告人の供述は、リムジン内で乙川が被告人はもういいとし、Dにやれと言った会話の流れやそれまでの経緯、状況に照らせば、十分肯けるし、また、証拠全体に照らしても、乙川がこの時点で被告人の発言如何で犯行を中止したものとは思われず、そもそも乙川に中止する意思があったとは到底みられない。

また、翌三月二〇日未明に、乙川の部屋に行ったのは、□□爆発事件等の報告のためであり、その際にたまたまKがビニール袋に入ったサリン一一袋を持ってきているが、被告人は、サリンが生成され、乙川の部屋に運ばれてくることを認識してその場に行ったものとはみられない。むしろ、被告人は、乙川からサリンの件はすべてDに任せておけと叱責されている。そして、被告人は乙川の部屋を出たところで、Dから傘の購入を依頼されているのであるから、この時までには、ビニール袋に入れたサリンを傘を使って漏出させる方法がDらによって既に決められていたものとみるほかなく、被告人が、サリン撒布の方法についての具体的決定に関わった形跡はない。

そうすると、被告人は、本件犯行の実行が決まった後、乙川と二度会ってはいるものの、それは、被告人が□□爆発事件等を任されていたことによるものであり、本件に関する具体的決定には関わっておらず、本件において、被告人がDに次ぐ立場であって、乙川やDとともに本件の意思決定をしていたという事情は認められない。

(3) 被告人は、同年三月一八日夕方、本件の具体的犯行方法に関して、乗降駅や決行時刻を決めることに関わっている。これは、被告人がTとDの部屋に出向いたところ、Dと実行役であるV、Sが既に検討を始めていたものである。この際の被告人の行為が、犯行実行に当たって有益な情報を付与したものであることは明らかであるが、そもそも、被告人が本件共謀関係に入ったのはこの時であり、被告人が関わった決定は、被告人の行動や参加を予定してなされたものではなく、本来Dと実行役との間で決定されるはずの事項についてのものであるし、その場で決定や指示を行ったのはDである。加えて、Dから実行役らに示されたサリン撒布の具体的方法の検討や下見等の指示に関しても、被告人は知らされていない。さらに、その後の具体的実行方法に関わる路線の担当、東京での乗降駅の下見や変装のための買物等については、実行メンバー自身が被告人の関与なくして決定、実行している。そうすると、本件犯行の具体的実行方法については、Dから直接に実行役に対して指示があり、実行役がそれに従って細部の決定をして、実行に至ったものとみられ、Dと実行役との間においては、被告人の関与はもともと予定されていなかったものと評価される。このことは、DがQを除く他の実行役に実行の指示をした際に、何ら被告人のことに言及していないところからも裏付けられる。

また、被告人は、同日午後、Tと東京でのアジトや車について相談しているが、これは両名の個人的関係からであり、Tによれば、初めは被告人がどの程度のことを知っているか分からなかったとしていることや、実行自体に関して二人の間で決まった事項もないことは、被告人に本件の決定権限がなかったことの証左ともみられる。

(4) 被告人は、同年三月一九日午後に乙川の部屋から出た際、Dから車五台の調達を指示され、アジトについて相談されて、渋谷アジトの提供を申し出た。また、運転者役の氏名とその実行役との組合せを東京にいる実行メンバーに伝達するよう指示され、これを履行している。

被告人の右行為が、本件を円滑に遂行するために必要な行為であり、有益なものであったことは明らかである。しかし、アジトの提供や車の調達については、濵口事件では、役割分担などが宿泊したホテルで相談されており、假谷事件では、拉致行為に使用した車自体がレンタカーであり、さらに本件では運転者役と連絡がとれない場合に備えて実行役に資金が渡されていることなどからすると、被告人の行為が、本件の遂行に不可欠であったとまではみられない。また、実行役と運転者役との組合せ等に関しても、Dは上九に残っていた者には自ら指示すると言ったのであり、現にそうしており、Oもまだ上九にいたのであるから、それらの者に伝達を依頼することは可能であり、被告人の存在やその関与が不可欠であるとまではいえない。加えて、Dは、被告人がDと共に乙川の部屋にいるにもかかわらず、わざわざ部屋を出てから被告人に指示を与えていること、被告人が□□爆発事件等で東京に行くことを前提としての依頼であること、東京に出向く実行メンバーの中には被告人よりステージが上位の者も含まれていること、車やアジトの提供に関しては、たまたま諜報省の長官として活動していた被告人であれば手際良くできるとみられたこと、被告人が、渋谷アジトで未調達であった車について、実行メンバーらに相談していることなどの事情もある。結局、被告人のこれらの行為は、Dが本件犯行の準備に関して、実行役に対する指示、命令とは別の関係で、地下鉄サリン事件の計画、指揮に当たる者でも、実行メンバーでもない、その意味で第三者的地位にある被告人が、たまたま別のワークのため東京に向かう上、依頼するに便利な立場にあったことから、補助的な事柄について被告人に指示したことに基づくものとみられ、アジトについて相談したというのも、本件の意思決定をしたとまではいえない。そうすると、Dの指示が、事件に関与した共犯者の中で被告人がDらに次いで実行役らの上位の立場にあることを前提としたものであるとはいえず、また、被告人の行為自体も実行役に匹敵するような意味を有するものとはいえない。

(5) そして、被告人は、渋谷アジトにおいて、右の事項について伝達をし、本件の実行について確認をした際に、会議の中心となって話をしている。

この際の被告人の行動が、他のメンバーに対して、被告人が、指揮をとるものであるかのような印象をもたせるものであったことは、前記認定のとおりである。

この点、運転者役の者は、渋谷アジトに来るまでの間に、本件の具体的指示を受けておらず、また、Rを除けば、それまでに本件の具体的実行方法の決定にも関与していない。むしろ、この際の被告人の説明によって、初めて本件を具体的に知ったとさえいえるのである。そうすると、被告人の行為は、運転者役にとっては、Gを除けば被告人が最も教団内の地位が高いことも手伝い、本件の意思決定者らに属するものであるとみえるのが当然である。そして、被告人の行為自体も現実に、運転者役に対し、指示、命令を与える立場の者としての役割を果たしているとも評価され得る。もっとも、実質的にみれば、実行役に運転者役との組合せを伝えさえすれば、後はすべて実行役が承知していることであるから、本件の実行には支障がないことであった。被告人より上位者の立場にあるGが、被告人に伝達を任せ、何ら異を唱えていない(前記第五、五2(1))のも、被告人の伝達行為の意味合いがその程度のものにとどまることを窺わせる事情である。

しかし、実行役に対する関係でみると、話合いの際は被告人がまとめ役ではあったものの、被告人の述べる内容は、それまでにDから指示され、あるいはO以外の実行役の間で決められていた事項の確認であり、実行役と運転者役の組合せ以外には新たな事項はなかった。また、実行役らは、Dから直接、本件は科学技術省のメンバーとOが実行することやその日時、路線等について指示されており、それまで被告人から指示された経緯はなく、残る運転者役との組合せについても、これ以前に今川アジトで自ら予定していた運転者役との組合せを決めていたのである。他の者と異なり、後から個別にDから指示を受けたQも、他の実行役や被告人と相談して行動しろと指示されていたのであって、被告人からの指示を受けろとは命じられていない。そして、被告人の説明の後は、乙川の指示によって運転者役に選定された新しいペアの相手方との間で、それぞれが具体的実行手順についての詳しい話合いをしているのである。ただ、Oだけは、事情が異なるが、同人についても、担当路線や運転者役との組合せ等は、被告人が他の者から聞くなどしてOに教え、あるいは同人が他の実行メンバーから直接聞いている経緯が窺われる。そうすると、実行役との関係においては、もともと被告人がDと実行役らとの間に立って、指示命令するという立場にはなかったし、被告人がもたらした新たな指示内容も組合せに関する事項だけであり、しかもDからの伝言として伝えられているのであるから、事柄の重要性や裁量の有無などからしても、被告人の行為を客観的にみる限りは、被告人の述べるとおりDからの指示を単に伝達したものという色彩が濃く、実行役の者は被告人が正悟師になったと同じ平成七年三月一七日付けの教団通達によって、いずれも近々正悟師に昇格することが決まっており、被告人のみが特段高いステージにあったわけでもないことなどからしても、被告人が、本件犯行に関して上位にある者として指示するような実態を伴ってはいない。

そうはいっても、被告人の行為が、実行役らにとっても現場で指揮をとる者の行為と映っている側面があることを完全に否定はできず、この点では被告人自身の認識と周囲の見方との間に差が生じていたとみる余地があり、被告人の行為が周囲に与えた影響を等閑視することはできない。しかし、被告人が、諜報省長官であり、三月一七日付けで既に正悟師となっていて、Gを除けばその時点では最も高い地位にあったことなどからして、実行役の者が振り返って、被告人が口火を切って話す姿を考えれば、被告人の役割が自分たち以下のものであったとは考えられないとすることも不自然なことではないし、そのような印象や受け止め方に基づいて被告人の役割を供述することも十分考えられる事態である(前記第五、四2で指摘したSの明白な誤解などはその典型である。)。したがって、被告人の行為に伴う影響は考慮しなければならないが、被告人の責任については、被告人の行為がどのようにみられたかではなく、被告人が実際に何を行ったかによって考量されるべきものであり、現実に被告人が話合いの中心になったことにより、本件の遂行、実現に特段の実質的な効果をもたらしたという関係は窺われないのであって、被告人の行為が具体的に与えた影響からすると、単に、指揮者的立場にあったとの共犯者の認識自体を過度に評価することはできない。

(6) また、被告人は、実行メンバーが出発した後に渋谷アジトに出向いているが、これは、本来予定されていたものでない上、実行に当たり不可欠な行為であったわけでもなく、被告人が、何らかの意思決定をしたり、上位的立場の者として実行メンバーの帰りを待っていたものとまではいえない。

(三)  以上検討したところによれば、被告人が、本件の犯行を平成七年三月二〇日の朝の通勤時間帯に霞が関周辺で実行すること、実行役や運転者役の選定及びその組合せ、撒布方法などの重要事項の決定に関与しておらず、他方で具体的実行方法の一部については、実行役ら自身が決定し、実行している上、被告人が渋谷アジトでDの指示を伝えた行為は被告人が実質的に指示する趣旨のものではなかったことなどからして、被告人が行った行為やその果たした役割は、それ自体、本件の意思決定者、あるいは、それに付随するような立場で行われたものではないとみられる。そして、被告人が、乙川から勝手に動くなと叱られ、サリンを上九から渋谷アジトに運ぶ際にも、被告人が上九に向かっているというTの説明に対して、Dが被告人は関係ないと言って、わざわざ実行役を急遽上九に呼び戻しており、実行後、乙川に事件の報告をしたのも実行役らであり、被告人は報告していないことなどの事情に照らすと、被告人は、本件で予定された本来的なメンバーではなかったものの、個々の場面において、被告人が自らDや実行役の行為に関わりを持とうとしたり、並行して進められていた□□爆発事件等の実行責任者であった関係でDと連絡をとる立場にあったことなどから、本件にも深く関与するに至ったのであり、実行役に対して指示命令する上位者として行動したものでも、また、実行役と同視できるような行為をしたものでもない。

(四)  他方、被告人は、本来のメンバーではないにもかかわらず、積極的に本件に関与しようとし、現に、自ら進んでDやTの部屋に行ったり、実行メンバーが出発した後の渋谷アジトに出向いたりしている。被告人に積極的な犯行加担意思があったことは確かであり、その結果、本件の円滑な遂行に寄与し、実行メンバーには現場で指揮をとるかのような印象を与えている以上、被告人の責任は強い非難に値する。

しかし、翻って考察すると、被告人が積極的に加担しようとしたのは、自分が本件の実行メンバーではないと思っていたため、自らのできる範囲で本件の円滑な遂行を支援しようとしたものであって、自らが実行メンバーではないからこそ、自己の行為の影響を的確に認識せず、実行役らを手助けしようと積極的に関与していることが窺える。この点で、本件は、他の各犯行と異なり、本来的な実行メンバーではなく、それを手伝っただけであるとする被告人の供述は、必ずしも自己の刑責を軽減するための弁解を弄するものとは決めつけられない。そして、このような被告人の、専ら教団内部のことばかりに目を向け、外部の一般市民に対する慮りの全くみられない独善的で危険極まりない思考傾向やその態度は強い非難を受けてしかるべきであるが、実行役として直接の実行行為に関与をする場合とそれ以外の行為をもって関与する場合とでは、自ずと差があり、後者の場合には首謀者等、犯行を計画、指揮するなどして主導する地位にない限り、犯行に対する積極的姿勢の故をもって、直ちに実行行為を直接行う者の責任と同視することは相当でない。

特に、本件においては、実行役となった者らの行動をみても、サリン撒布の方法を自主的にいろいろ考えたり、担当路線等を決めたり、下見をしたり、ビニール袋を傘で突く予行演習を繰り返すなどしており、実行役自体に、より積極的な関与意思があったことも十分窺えるのであり、被告人だけが、積極的であり、他の共犯者の意思を左右したとはみられない。

以上によれば、被告人の責任は、非常に重いが、その責任は、本件証拠上認められる限り、本件の実行役と同視し得る程度のものであるとまではいえない。

2  落田事件においては、被告人は、頸部をロープで締め付けられるなどして暴れる被害者の足首を両手で押さえ付ける行為に出ており、実行行為の一部を行っている。

しかし、その態様をみると、他の教団幹部らが被害者を押さえる行為に出たのを見て、自分も加担しないわけにはいかないと思って、実行行為に出たのであり、実行行為に及んだ共犯者中では、後から加わったものである上、行為自体が既に他の者が上に乗って押さえ付けている状態にあった被害者の足首を押さえたもので、頸部に巻かれたロープを引くなどの被害者の死に直結する行為や、暴れる被害者を羽交い締めして押さえるなどのより直接的な行為には出ておらず、被告人の実行行為は、被害者の死の結果に対して直接の原因にはなっていない。この点は、それなりに考慮されるべきである。

3  VX事件については、いずれの被害者に対しても、VXをかけたのはA2であり、被告人は、直接の実行行為は行っていない。

しかし、被告人の関与状況に照らすと、被告人は、各犯行を指揮し、主導した中心メンバーの一人であったと認められる。そうすると、直接の実行行為をしていないとしても、この点は特に被告人に有利とはいえない。

もっとも、訴因外ではあるものの、水野事件に先立つ第一回襲撃に際して、被告人は、被害者と目が合ったような気がし、自ら直接の実行行為に出ることを躊躇して、水野にVXをかける実行行為に及ばないで終わり、そのため襲撃が失敗した経緯がある。そして、その後の各事件の実行にあたって、実質的に指揮をとったのはGであり、被告人はその補佐的役割を果たしているのであって、このような共犯者間の立場の違いは、考慮の余地がある。

4  假谷事件についても、被告人は、逮捕監禁行為自体には関与していないし、犯行のきっかけとなった被害者の妹に対するお布施や出家の勧誘等にも関わっていない。

しかし、被告人は、本件実行に際して、その中心となる一人であったことは明らかであり、自ら実行行為に及んでいないことのみをもって、特段の事情とみることはできない。

5  □□爆発事件及び火炎瓶事件については、被告人は計画立案の段階から中心となって関与し、準備行為から実行に及ぶ一連の行為について、共犯者を指揮監督し、あるいは自ら実行行為に及んでおり、本件に関与した共犯者の中では最も重い責任を問われるべきものである。

6  新宿青酸事件及び都庁事件については、被告人は、いずれの事件の際にも、自らに対する逮捕状が出ていたために、アジトから出られず、下見等の準備行為や実行行為を分担することはなかった。

そして、青酸ガス発生装置も爆弾も製造していないことなどからすると、被告人が、他の教団幹部らに比して、本件各犯行の主導的地位にあったとはまではいえない。この点はそれなりに評価されるべきである。

六  また、弁護人は、被告人は、一六歳の未熟な時期にオウム真理教に入信し、以後教団以外の社会での生活を経験しないまま、二四、五歳で本件各犯行に及んだものであって、被告人自身には利己的な動機はなく、乙川にマインドコントロールされた結果、乙川の命令に従わざるを得ない心理的状況に追い込まれていたもので、その事情は量刑上十分考慮されるべきであると主張する。

1  マインドコントロールについては、前示したとおりであり(第八)、被告人は、本件各犯行当時、教団内にあって乙川から心理的拘束を受け、その命令や意思に反することが心理的にかなり困難な状況にあり、そのような事情は量刑にあたっては一定限度で考慮することができるといえよう。

もっとも、さらに検討すると、乙川が説く教義や修行の内容をみれば、教団が武装化を進め、ポアと称して人の生命を奪うことまで容認するような趣旨でヴァジラヤーナの教義を唱えるに至った時点においては、最早それらが著しい反社会性や違法性を有するものであることは明白であって、通常人であれば、殺人さえも正当化するような教団に従って、違法行為や反社会的行為を行うことが許されざるものであることに、容易に気付いてしかるべきであり、被告人にも、それに気付く機会が折に触れて存在していた。それにもかかわらず、被告人は、解脱、悟りを得たいとの強い欲求等からその機会を見過ごし、あるいはこれに気付きながらもなお、自己の判断で教団に残ったのであるから、本件各犯行時まで教団にとどまり、各犯行に加担する事態に至ったことは、結局のところ、被告人が自ら選択したことの帰結である。このような観点からすれば、被告人が心理的拘束下にあったことを、特段有利な情状として考慮することは本来相当でないというべきであろう。

しかし、被告人は、高校二年の一六歳の時にオウム真理教に入信し、高校を卒業した直後に出家をし、大学一年の夏休み前まで教団施設から大学に通ったのみで、その後は、専ら教団内で生活し、一般の社会人としての経験は全くない。そして、被告人は、もともと解脱、悟りを早く得たいとの強い欲求があり、入信後は、できるだけ早く解脱、悟りに達し、社会を救済したいと考え、乙川を信じて、人一倍熱心に修行に励んでいた。被告人が入信し、さらに出家した当時のオウム真理教は、まだ武装化など反社会的性格を顕著に示してはおらず、被告人が、当初乙川を信じ、乙川に従っていたことを一方的に強く非難することはできない。その後、乙川を信じていた被告人は、オウム真理教が武装化を始め、反社会的集団に変貌していく中で、自己に課されるワークの内容や修行内容に対して、疑問を持ったり、教義と自己の価値判断等との間で葛藤しながらも、結局は、乙川を信じ、乙川に従ってきたのであるが、被告人がこのような葛藤の中で、乙川を否定することは、入信や出家までの間にそれなりの社会経験を有し、社会的地位や家庭を築いてきた者と比較すれば、より困難であったことは否めないところである。被告人にとっては、高校卒業後に修行者となることを選択して出家し、両親の下を離れて以来、修行、生活の場としていた教団こそが、被告人が社会経験を積み、人間的に成長して行く世界となったはずだったのである。このような被告人が、乙川やそれまでの自己の修行を否定することは、自分の社会経験をすべて否定することにつながり、必ずしも容易なことではなかったであろうことは、率直に認めざるを得ない。

そうすると、このような乙川の影響下から離脱することの困難性は通常の者と比較して程度問題に過ぎないから、それをもって責任能力や期待可能性の存否に影響を与えるまでのものではないことはもとよりであるが、本件各犯行当時、被告人が置かれていた状況や心理状態は、被告人にとって有利な情状の一つとして、決して過大視はできないものの、それなりに評価することが相当である。

2  さらに、前示のとおり、被告人は乙川の心理的拘束下にありながらも、殺人などのように反社会性の強い行為について実行犯として犯すところまでは至っていなかった。被告人は一六歳の若さでオウム真理教に入信して以来、長期間にわたって強く、乙川からのマインドコントロール的な影響を受け続けてきたものであって、それにもかかわらず、なお完全には乙川の統制下に入っていなかったことは、被告人自身の道徳、倫理観や価値観等が諜報省が担ったような通常の違法行為はともかく、殺人等の直接的な実行行為まで犯すことには抵抗していたものともみられるのであって、このことは被告人の犯罪性向を検討するにあたって重要な要素である。

そして、本件各犯行について、被告人の関与状況を具体的にみるに、前示のとおりであり、被告人はこれだけ多種多様の凶悪な犯行に加担する中で、直接自らの手で人を殺害する実行行為には及んでいない(なお、その例外とみえる落田事件については前示のとおりである。さらに、訴因外ではあるが、アタッシェケース事件もその例外のようにみえるが、それまでの経緯等からして、既にいわゆる松本サリン事件を経ていたサリンを使用する場合と異なり、どれだけの実現可能性があったか判然とせず、また結局のところ、実行に及ぶことを逡巡した被告人の過誤で実害が生じなかったのではないかとみる余地すらある。)。被告人はそれをトラウマと称し、どうしてもそれだけは容易に踏み切れなかったし、乙川もそれを見抜いて執拗には命じなかったというのであるが、失敗に終わったとはいえ水野事件の第一回襲撃の経緯、状況、□□爆発事件や新宿青酸事件、都庁事件等で、直接的な実行行為に及んだり、自己の手で犯すのでなければ極めて危険かつ暴虐な犯行に出ていること、水野事件の第二回襲撃以降に関与したA2によれば、被告人が平然としてA2に実行を肩代わりさせた経緯がみられることなどからすると、結局は自らの手は汚したくないという意向に基づくもので、決して他者の殺害に躊躇を覚えるというようなきれい事ではない面も窺えるし、むしろ他人に最も深刻な役割を当然のように押し付ける卑劣な傾向すら窺うことができ、必ずしも被告人に有利な方向でのみ勘案することはできない。しかし、それにしても、数々の本件各犯行に関与し、しかもその役割として、教団施設等で計画を立案し、指示命令する立場ではなく、現場で実行メンバーの一部として実行面に当たることの多かった被告人が、何度か乙川からの指示を受けながらも、結局最後まで直接的な実行行為をするに至らなかったことは、被告人の刑責を考えるにあたって見落とすことができない。

すなわち、このような被告人の関与状況は、それ自体として自ら実行に及んだ者ないし犯行を首謀し、指揮命令した者に比べれば、比較の問題とはいえ、犯情を些かなりとも軽減する方向に働くし、とりわけ末期には狂気のごとき殺人集団の様を呈していたオウム真理教にあって、秘密ワークに一貫して関わる中でも、最後までその一線を超えなかったことは、その理由として被告人が述べるところをどこまで信用、重視するかはともかくとして、当時、被告人が違法行為の繰返しに、内心での疑念や躊躇、抵抗を感じ、さまざまな葛藤の中で外部からもそれと分かるほど憔悴していた状況をも勘案すると、それなりに被告人の人間性が発露したものであり、その犯罪性向がさほど躊躇することなく殺人をも犯すような程度にまでは深化していないことを示す証左として、その限りでは評価してよい点といえよう。

七  さらに、弁護人は、被告人が自分の行為を真摯に反省悔悟し、心から被害者に詫びる気持ちを持っていると主張する。

1  まず、弁護人は、被告人が乙川の教えの誤りに気付き、精神的、肉体的苦痛を自力で乗り越えてオウム真理教から脱会し、他の信者にも乙川を否定するよう呼びかける行動に出たことを指摘する。

被告人が、逮捕当初は事実について黙秘するなどし、その後は自らの行為については認めながらも乙川の関与については進んで明らかにしようとしなかった時期を経て、捜査担当者が承知していなかった乙川の言動まで述べるようになった経緯は被告人の供述の経過に照らして明らかであり、その過程において、被告人が平成七年一二月に教団から脱会したことも、証拠上認められる。確かに、弁護人指摘のとおり、本件各犯行に関与した共犯者の中で、今なお教団の反社会性に目を背け、乙川に対する帰依を捨てきれないでいる者の存在も窺えるのであって、それに比べれば、被告人の反省の情をその限りで認めることはできよう。また、被告人が乙川の教えを否定するに至る過程にあって、乙川によるマインドコントロール的な影響から抜け出るため、個人的に非常な精神的苦痛を伴った経緯も窺えないではない。しかし、前示のとおり(六1)、もともと乙川の説く教義なるものは、およそ荒唐無稽で到底人類の救済などといい得るようなたぐいのものではなく、しかも被告人は本件各犯行当時は修行としてのワークという名目で専ら違法な活動に従事していたのであるから、それにも関わらず乙川に対する帰依を維持していたのは、主として被告人の責に帰すべきところというほかない。逮捕後脱会する過程で、相応の困難があったからといって、それを被告人のために特段酌むべき事情とみることは相当でない。

ただ、被告人が、自己の行為の責任を自覚するとともに、乙川の教義の極めて独善的な欺瞞性、自己中心的な反社会性に思いを致して、単に脱会するにとどまらず、積極的に乙川を否定する行動に出、勾留理由開示などを通して、逃走中であったり教団にとどまる信者らに対して、乙川を否定するメッセージを送り、xのように現にこれに影響された者もいることは、本件各犯行が狂信的な犯罪集団と化していたといってよい教団による組織ぐるみの一連の犯罪であることからすると、相応の評価をしてもよい事柄である。

また、このような過程を経て、被告人が、事実を正直に話さなければならないと考えるようになり、自ら捜査官を呼んでそれまで捜査機関に発覚していなかったリムジン車中での会話に関する重要事項を明らかにするなどし、これまで、乙川を始めとする他の教団関係者の法廷を含むさまざまな場面で、自らの刑事責任に直結する事柄についても証言を拒絶することなく、事実を繰り返し述べてきたことは、被告人の反省の現れとみることができる。

すなわち、被告人は、自己に不利益な点を含め、できるだけ正確かつ詳細に思い出そうと努めて、正直に供述しようとする姿勢を示し、それに従って供述していることは、公判廷を通じて十分に理解できるところ、被告人がすすんで供述した内容が、教団の実体や違法行為の解明に貢献するものであることは、未だに被告人以外に乙川の関わりを明確に述べる者がない右リムジン内の会話に関する点を始めとするその供述内容自体及び被告人が主として検察官証人として、平成八年五月から平成一一年一一月までの間でも約九〇回出廷して証言していることからも十分窺える。被告人が多くの他の法廷に出廷しているのは、自ら関与した犯罪事実が多数であるからであり、また、オウム真理教関係者の中で事実について供述する者も多く、被告人のみが供述して事案の真相を明らかにしようとしているわけでもない。しかし、乙川を始めとして、地下鉄サリン事件などに関与したり、乙川の側近にいた者らの中には、未だ証言を拒絶する者も複数いて、犯行の重要部分が明らかにならない点が存在しており、乙川との関わりや乙川の指示について供述できる立場にあり、かつ、事実を完全に否定している乙川の面前での証言のように、被告人にとっては困難があると思われる客観的状況下でも、それらをつぶさに供述する態度を貫いてきた被告人の行動が、事案の解明に重要であることは否定できない。そうすると、右のような点を全く考慮しないというのは相当とは思われない。

2  また、弁護人は、被告人が被告人なりに、精一杯反省を深めようとしているとする。

被告人は、第一回公判から「すべての事件に関与したことは間違いない。結果の重大さ、罪の重さを改めて自覚し、被害者、御遺族、未だに後遺症に苦しむ方々などには本当に申し訳なく、どのような言葉でお詫びすればよいのか、その言葉すら見い出すことができない」旨述べ、弁護人が期待可能性がないなどとして無罪を主張した後も、「自分の無罪を考えていない」と明言して事件に対する反省の態度を示しており、当初から、被告人なりに心から反省し、謝罪する気持ちを表現しようとしていたものとは窺える。しかし、同時に、「本当の修行者としてすべての事実を明らかにすることが今の自分にできる唯一の償いである」と述べるなど、なお宗教や修行に強くこだわる姿勢を見せていたのであって、その反省や謝罪のあり方は甚だ不十分なものであった。その後も、被告人は、拘置所内で被害者のために瞑想修行をしていると述べるなど、およそ自己の行為に対する通常の反省の示し方とは異なる態度を見せ続けてきた。

公判廷を傍聴した被害者やその遺族にとって、このような姿勢で公判に臨む被告人の在り方やその供述態度からして、如何に被告人がさまざまなオウム真理教による犯行に関する供述を重ねていっても、なお反省、悔悟や謝罪の気持ちが十分でないと映ったのは当然のことであった。当裁判所は、本件各犯行の被害者、その遺族、関係者等一五名を超える証人を取り調べたが、被告人の面前で証言した被害者の遺族の多くが、「裁判の結果に従いますって、それが反省していることになるのか。誰だって死にたくない。亡くなった人も皆そうだよ。」「自分のためにしか言っておらず、真摯に反省しているとは思えない。人の生命を奪ったのだからそれを償うのなら、死ぬことしかないのに、そういう気持ちで裁判に向かっているとは感じられない。謝罪の気持ちも伝わらないし、現実を直視していない。」などと被告人を痛烈に非難し、おしなべて被告人に対して極刑を求めた心情は、まことによく理解できるところである。

しかしながら、被告人は、間近に被害者やその遺族の述べるところを聞いて衝撃を受け、自分の思い上がりと自己保身のための偽善を述べてきたことにようやく気付くようになるとともに、自らの心理状態や宗教との関わり方の問題点について西田鑑定を受け、浅見証言を聞き、その中で「人格としての膨らみが高校生程度にとどまっている。現実感がなく、修行にこだわっている。」との指摘を受けるなどし、とりわけ証拠調べの終盤において、集中的に取り調べた多くの被害者やその遺族らが、前示のように、異口同音に被告人らの犯した行為によって生じた被害の悲惨さ、甚大さや被告人に対する厳しい処罰意見を繰り返すのを目の当たりにして、次第に独りよがりな態度を改めて宗教的なものに逃げ込むことなく、人間として自己の責任に正面から向き合うように努め、改めて自分が極めて傲慢で、他人の生命や感情を全くないがしろにして教団外の個々人の生活や思いを顧みようともしていなかったことに思い至って、自らの犯した罪の大きさに打ちひしがれ、その行為がもたらした取返しのつかない惨状に対する畏れを実感して困惑、苦悩し、被害関係者に対する素直な謝罪の念を示しながらも、一方ではなお自らの生へ執着して迷うなど、人間としての率直な気持ちを素直に示すようになってきた。すなわち、被害者らの本当の悲惨な現実を全く感じておらず、それまでの反省、悔悟なるものが、まことに浅薄で、宗教という名の下に逃げ込もうとする方向性を誤った極めて不十分なものであったことを痛切に感じたとして、「審理当初は反省ができていなかったし、自分に都合の良いことを振り切る姿勢に欠けて、考えていけないと思いながらもやはり自分の刑について考えており、事実を供述することが有利に働くという汚れた意識が自分の中にあったことに気付いた。」などと率直に認め、さらに最後の被告人質問では、「被害者や遺族の証言を聞いていてものすごく怖かったし、何てことをしたんだろうと、自分自身が生きていることが申し訳なく、自分は何もできないことを感じて、本当に怖くてどうしていいか分からない。これだけの罪を犯した者として、人としてどうあるべきかを自覚すべきなのに、それを見失っていた。自分には償いなど何もできなかったことを痛感している。犯した罪が怖くて宗教的に考えていて、Oと異なり、人としてどうあるべきかを考え、自分の生命を投げ出すだけの勇気がなかった。宗教から離れて、これだけの罪を犯した人間としての在り方を真剣に考えるべきことを、最後になってようやく自覚し、自分ができることは厳しい法の裁きを受けることだと思い至った。」旨心境を述べ、検察官の死刑求刑を受けての最終陳述に際しても、自分の反省が甘かったとして、最後に「何の落ち度もないのに亡くなった人のことを考えると、もう何も言えません。」と述べるに至っているのである。

このような、本件審理における被告人の供述の経緯や状況及びその態度等に照らすと、被告人が述べる反省と謝罪の言葉には、その内面の変化が十分に見て取れ、現段階においては、被告人の本件各犯行に対する反省、悔悟が真摯かつ顕著なものであると認めることができる。

もとより、事実について明らかにしようと努め、反省の情を示していることなどの被告人の主観的事情は、とりわけ被害者やその遺族の立場を考えれば、被告人のために酌むべき事情として過度に重視することは適当ではない(最高裁平成一一年一二月一〇日第二小法廷判決・刑集五三巻九号一一六〇頁、最高裁平成一一年一一月二九日第二小法廷判決)。しかし、以上のような事情及び被告人の反省、悔悟及び謝罪の気持ちが真摯なものであることは、量刑上も一定の限度では有利に考慮できる事柄であるし、とりわけ、被告人の反社会性、犯罪性向の程度が前示のようなものにとどまることとも併せ鑑みると、被告人に対する死刑選択の検討に際して、斟酌しうるに足る要素というべきである。

八  以上検討してきたとおりであり、被告人は、オウム真理教関係者による一連の犯行の捜査、起訴の段階において、諜報省長官として教団の非合法活動の実行部隊の中心と喧伝されたのであるが、正にそれに相応するかのように、殺人の被害者だけでも実に一四名に及ぶ本件各犯行を犯し、その実行行為者あるいは犯行の主導者などとして重要な役割を果たしているのであって、各犯行の罪質、動機、態様、結果の悪質、重大性、遺族の被害感情及びこれらが我が国に及ぼした甚大な社会的影響等を全体としてみるとき、被告人の刑事責任は極めて重大というべきであり、死刑を選択することは当然に許されるべきで、むしろ、それを選択すべきであるものとすらいえる。しかしながら、これを被告人の各犯行に対する関与状況について個別具体的にみるときは、前示のとおりであり、量刑上最も重要であるべき地下鉄サリン事件においては、自ら実行行為を行っておらず、首謀者でも現場指揮者でもなく、さらに指揮系統に属する者として実行役らに指示する立場にあったり、現に指示するなどの行為にも及んでおらず、結局犯行に関与した共犯者の中では、本来的な実行メンバーではなかったものの、後方支援あるいは連絡調整役の役割を行ったもので、実際的にも主導的役割を果たしたとはいえないのである(五1)。共同正犯あるいは共謀共同正犯が、犯行全体に対して責任を負うことは当然であるとしても、直接実行行為を行った者や当該犯行の首謀者等の地位にある者と直接の実行行為を分担していなかった者との間には、その責任の程度において差異があることもまた明らかである。共犯者中で主導的あるいは上位の指示者的な立場の者か、それ以外かによっても、同様に責任の程度には差異が生ずる。地下鉄サリン事件において、被告人の行った行為や果たした役割、共犯者中の立場は、実行者と同視することができる程度のものとまではいえない。また、被告人は、□□爆発事件を除くその他の事件においても、実行行為あるいは結果発生に直結するような実行行為を行っていない。すなわち、落田事件では直接的な殺害行為以外の面で実行行為の一部に関与したに過ぎず(五2)、VX濵口事件では犯行を指揮する立場にあったとはいえ、Gの補佐役にとどまっており、共犯者中で最も主導的な役割を果たしたとはいえず(五3)、そのほか被告人が自ら実行したり、実行者を指揮、主導した犯行においては、被害者が死亡するに至っているものはないのである。

そして、被告人の本件各犯行当時の心理的状況、現在までの反省、謝罪の態度、自己及び他の公判廷での供述態度及びその内容、それらから窺われる被告人の犯罪性、反社会性の状況、程度、前科前歴がないこと、両親が三〇〇万円をサリン事件等共助基金に寄付していること、被告人も自らの証人日当について約五〇万円全額を寄付していることなどの諸事情を併せ考えると、被告人に、地下鉄サリン事件の首謀者や実行行為者と同視しうるような責任までを負わせることはできず、死刑が究極の峻厳な刑であり、その適用に当たっては、慎重かつ綿密に犯行の罪質、態様、結果等諸般の情状を検討し、真にやむを得ない場合に限って選択することが求められることからすると、被告人に対して、死刑という極刑を選択することには、なお幾分かの躊躇を感ぜざるを得ない。

よって、被告人を無期懲役に処するのが相当と判断した。

なお、以上のような量刑事情に鑑み、未決勾留日数は算入しない。

(求刑 死刑)

(裁判長裁判官・井上弘通、裁判官・野口佳子 裁判官・江口和伸は、差支えのため署名押印できない。裁判長裁判官・井上弘通)

別表一〜六<省略>

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